閉店間際の店内は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだった。新はレジ脇の売上帳をめくり、今日の数字を指で追う。コーヒーの売れ行きも悪くない。けれど、欄の端でいつも同じ顔をしているのは、やはりたい焼きだった。 「また、だな」 独り言のように漏らしながら、新はペン先を止める。朝から夕方までの客の流れを思い返すと、答えは少しずつ輪郭を持ちはじめていた。たい焼きは甘いから売れるのではない。軽いからでも、珍しいからでもない。手に取る理由が、飲み物より先に生まれるのだ。疲れている遥斗は、持った瞬間に肩の力を抜いた。陽子は誰かへ渡す前提で選んだ。凛乃は初めての扉を開ける合図にした。 そこへ、鈴が控えめに鳴った。 「まだ、いいですか」 戻ってきたのは、遥斗だった。さっきよりネクタイはさらに緩み、仕事帰りの顔に少しだけ安堵が混じっている。 「ちょうど片づけるところだったけど、どうした」 「いや、その……やっぱり、もう一つだけ」 新が笑うより早く、今度は陽子が入ってくる。買い物袋はない。代わりに、さっきまでの柔らかい表情をそのまま持ってきたような足取りだった。 「あら、まだ残ってたのね」 「最後の一つ、合ってよかった」 新がそう言うと、陽子は目を細める。 「友人に渡したら、今度は自分の分も欲しくなったの」 さらに扉が開いて、凛乃が友人と顔をのぞかせた。 「すみません、まだ間に合いますか」 新は一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑する。 「今日は、たい焼きが会いたがってるらしい」 三人は顔を見合わせ、妙に気まずくて、妙におかしそうに笑った。遥斗が先に席へ戻り、陽子は会計を済ませながら包装紙の折り目を確かめる。凛乃たちは残った席の端に腰を下ろし、何気ない学校の話を始めた。世代も生活も違うのに、ひとつの甘い匂いがあるだけで、会話の温度が揃っていく。 新はその様子を見ながら、売上帳を閉じた。 この店では、飲み物が人を迎えるとは限らない。たい焼きがあるから、言葉がほどける。たい焼きがあるから、知らない相手にも一歩近づける。 「この店では、飲み物より、会話を温める役目がたい焼きなんだな」 ぽつりと口にしたその結論に、自分で納得するようにうなずく。 遥斗が聞きとがめて笑う。 「なんか、すごくそれっぽいですね」 「それっぽいんじゃない。本当にそうなんだろう」 陽子も頷き、凛乃も楽しそうに紙袋を抱え直した。店内には、甘い匂いと低い笑い声がまだ残っている。新はカウンターの内側で、その光景を静かに見つめた。今夜だけは、売れた数の理由がはっきりと見える気がした。
喫茶店のたい焼き事情
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