エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

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5章 / 全10

喫茶リラの午後は、たい焼きを焼く音で始まり、たい焼きを焼く音で終わるようになっていた。最初は珍しさから集まった客たちも、いつの間にかその音を聞かないと落ち着かない。カップの触れ合う乾いた響きに、鉄板の上で生地がふくらむ気配が重なり、店内は静かなのにどこか生き物じみた温度を持ちはじめていた。 マスターは相変わらず口数が少ない。だが視線だけはよく動く。コーヒーだけを頼んだはずの客が、焼き上がりの匂いに負けてもう一匹と呟く瞬間。参考書を開いていた学生が、隣の席の知らない客と頭から食べるか尻尾から食べるかで笑い合う瞬間。近所の人が持ち帰りの袋を提げたまま、少しだけ腰を下ろしていく瞬間。そうした小さな揺れを、マスターは一つずつ拾っていた。 ある日、常連の婦人が友人を連れてきた。友人は、喫茶店らしい落ち着きがないと言いながら席に着き、焼きたてを口にした途端、言葉をなくした。婦人はその反応を楽しそうに眺め、マスターは黙って次のたい焼きを返した。人は味だけで動くわけではない。待つあいだの気まずさがほどけることもあれば、隣の席からこぼれるひとことが、妙に心を軽くすることもある。ここでは、そうした寄り道こそが目的になっていた。 マスターは少し考え、店の奥に小さな棚を置いた。急いで食べたい客には持ち帰りの包みを、ゆっくり過ごしたい客には湯気の立つ席を。さらに、焼き上がりを待つあいだにページをめくれるよう、古い本も数冊並べた。すると不思議なことに、客たちは以前より落ち着いて滞在するようになった。たい焼きを目当てに来る者も、コーヒーを味わいに来る者も、互いの気配を邪魔にしない。むしろ、知らない誰かの静かな存在が、店の居心地をさらに深くしていく。 閉店間際、いつもは急いで帰るスーツ姿の男が、珍しく窓際で長く外を見ていた。やがて彼は、焼きたてを包んだ袋を手にしたまま言った。ここに来ると、帰るのが少し惜しくなる。マスターは短くうなずき、鉄板を拭いた。喫茶店らしさと、たい焼き屋らしさ。そのどちらかを選ぶのではなく、重ねればいいのだと気づいたからだ。 その夜、マスターが仕込みを終えて灯りを落とすと、店はいつもより少しだけ広く感じられた。明日もまた、誰かが焼き上がりを待ち、誰かがコーヒーを飲み、誰かが予定外に笑うだろう。そんな気がして、マスターは静かに微笑んだ。

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