翌朝の空気は、開店前の甘さをまだ少しだけ引きずっていた。新がシャッターを上げると、通りの向こうで見慣れない光がやけに強く跳ね返る。向かい側に、昨日までなかったはずの看板が立っていた。大きくて、派手で、朝の駅前には少し場違いなくらい目立つ。 「……ああ、今日だったか」 低くつぶやくと、店先の静けさがいっそう際立つ。大型チェーンのカフェが開店したらしい。入口では紙の旗が揺れ、安売りの文字が通りへ向かって伸びている。ざわつきはすぐに広がった。通勤客の何人かが足をゆるめ、何人かはちらりと看板を見上げ、そのまま通り過ぎる。 新はあえて動かなかった。いつも通り、テーブルを拭き、ショーケースを整え、湯気の立つポットを確認する。だが視線だけは、向かいを行き来する人の流れを追ってしまう。 最初に立ち止まったのは、散歩帰りの常連だった。いつもなら迷わずこちらへ入ってくるのに、今日は交差点の端で一瞬だけ歩幅が鈍る。次の瞬間、派手な看板のほうを見て、それから喫茶しおりへ目を向けた。 「……いらっしゃい」 新がそう迎える前に、常連は苦笑して扉に手をかけた。 「ちょっと、向こうが気になってさ」 「でしょうね」 新は笑って返したが、胸の奥では別の音が鳴っていた。人の足が止まる。それは店にとって小さくない揺れだった。今まで何気なくつながっていた流れが、向かいの光に吸われていくような気がする。 それでも、ショーケースのたい焼きは変わらず静かに並んでいる。甘い香りは、いつもの朝と同じ顔をしていた。 常連はひと呼吸置いて、やはりこちらへ入ってきた。 「やっぱり、こっちだな」 その一言に、新は少しだけ肩の力を抜く。 「ありがとうございます」 礼を言いながらも、視線はまだ通りの向こうへ残っていた。新は気づいていた。これはただの開店ではない。人がどちらへ流れるか、しばらく静かに見届ける必要がある。たい焼きが相変わらず売れていることだけが、今の店を細く支えていた。 新はレジのそばに立ち、ひそかな不安を飲み込む。派手な看板は、朝の光の中でなお騒がしかった。けれど、そのざわめきの中でも、足を止めた人をこちらへ連れ戻すものがあるのなら、まだ大丈夫かもしれない。新はそう思い直し、常連の注文を受けるために、静かに顔を上げた。
喫茶店のたい焼き事情
全年齢小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0
