エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

7章 / 全10

マスターはその日、珍しく売上帳ではなく客の顔を見ていた。たい焼きが好まれる理由を知りたいのなら、数字より先に、食べる前の表情を追うべきだと感じたからだ。焼き上がりを待つ学生は、参考書を閉じてまで隣席の会話に耳を傾ける。急ぎ足で来た会社員は、受け取るまでのわずかな間に肩の力を抜く。常連の婦人は、今日は一つだけと言いながら、待っているうちにもう一つの話を始める。どうやら客たちは、たい焼きそのものだけでなく、そこに至るまでの時間を楽しみにしていた。 鉄板の前で生地がふくらむ音は、店内の空気を少しだけ柔らかくする。焼き上がりを待つ数分が、初対面の客同士をゆるく結び、知らない者同士の視線を自然に交わらせる。味だけなら他にもある。だがこの店では、待つことと話すことが、いつの間にかひとつの楽しみになっていた。マスターはそれを観察しながら、喫茶店なのに主役がたい焼きになっている現状に、内心で小さく首をかしげる。けれど不思議と、困惑は長く続かなかった。 予定通りに整った静けさより、少し外れたにぎわいのほうが、人は安心することがある。窓際で一人で過ごしたい客も、焼きたてを囲んで笑いたい客も、同じ匂いに引き寄せられていた。そこでマスターは、席の配置を少し変え、待ち時間に手に取れる雑誌や古い本を増やした。急ぐ者には持ち帰りを、ゆっくりしたい者には湯気の残る席を。すると、店は騒がしくなるどころか、むしろ落ち着きを増していった。 閉店間際、いつもは短く食べて帰る青年が、窓の外を眺めたまま動かなかった。やがて彼は、ここに来ると急いでいた気持ちまで焼き上がる気がするとつぶやく。マスターは返事をせず、ただ静かにうなずいた。その瞬間、彼は悟る。喫茶リラの魅力は、コーヒーでもたい焼きでもない。待ち、語らい、少し予定を外れた人々が、ここで一度だけ呼吸を整えることなのだ。鉄板の上で次の一匹が色づく。マスターはその様子を見つめ、わずかに目を細めた。

7章 / 全10

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