エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

8章 / 全10

ある雨上がりの午後、喫茶リラの前にはいつもより長い列ができていた。たい焼きの焼き上がりを待つ客たちが、傘を閉じながら小さく肩を寄せ合っている。マスターはその光景を見て、ようやく理由の輪郭をつかみかけていた。 焼きたての味が人気なのはもちろんだが、それだけではない。待つあいだに隣へ譲る一歩、初対面の客同士が交わす短い天気の話、受け取った瞬間にこぼれる安堵の笑み。そうした細かなやり取りが、たい焼きをただの甘い食べ物ではなくしていた。客たちは腹を満たすためだけに来ているのではない。ここでほんの少しだけ心がほどけるのを楽しみにしているのだ。 マスターは少し困った。喫茶店として静かな時間を守りたい気持ちもある。だが、店の空気を本当に作っているのは、整いすぎた秩序ではなかった。予定から半歩ずれた会話、焼き上がりを待つ間の間、そうした揺れがあるからこそ、人は席に長く留まる。彼は鉄板の前でたい焼きを返しながら、店の魅力は最初から完成しているものではないと知った。 その夜、常連の婦人が窓際でコーヒーを飲み終え、珍しく言った。ここは、来るたびに少しだけ気分が変わるのね。マスターは湯を注ぐ手を止めず、短くうなずいた。別の席では学生たちが、あんことクリームのどちらが好きかで笑っている。いつの間にか、店はたい焼き屋のようでいて、やはり喫茶店でもあった。 そこでマスターは、思い切って工夫を加えた。鉄板のそばに小さな待ち椅子を増やし、窓際には静かに過ごしたい客向けの席を残した。持ち帰りの包みも少し工夫し、焼き上がりを逃したくない客には順番がわかるようにした。すると客たちは、急かされることなく自然に会話を始め、ゆっくりしたい者はさらに落ち着いて過ごすようになった。 閉店間際、いつも早足で帰る青年が、今日は最後まで席を立たなかった。やがて彼は包みを手にしたまま、ここに来ると、自分まで焼き上がるまで待てる気がすると笑った。マスターはその言葉に、ほんの少しだけ目を細める。喫茶リラは、静けさとにぎわいのどちらかを選ばなかった。ただ、両方があるからこそ生まれる温度を抱え込んだのだ。雨の匂いが消えた店内で、次の一匹がきれいな焼き色を帯びていく。マスターはそれを見つめ、静かに微笑んだ。

8章 / 全10

TOPへ