エラベノベル堂

湯気の向こうのつけ麺店

全年齢

小説ID: cmnhh9bl8000m01motoiohxho

3章 / 全10

青年は器の由来をさらに追い、町外れの古書店で、薄い埃をかぶった地図帳と口承集を見つけた。そこには、かつてこの場所にあった茶屋が、客の望みを映す鏡のような器を祀っていたとある。器は、美しさを望む者には整いすぎた姿を、孤独を望む者にはひとり分の静けさを、誰かに認められたい者には称賛の目を返す。だが返ってきたものは、望みそのものではなく、望みを増幅した影にすぎなかった。青年はそれを読んで、思わず店の暖簾を見上げた。毎日、あの店で笑っていた客たちの顔が脳裏をよぎる。どこか浮ついた会話、視線の先にいるはずのない美青年、食後に残る甘い気配。それは宣伝文句ではなく、器が客の心に触れていた証だった。翌夜、閉店後の店はひどく静かだった。だが静寂の底で、湯の沸く音だけがやけに大きく響いた。青年が仕込みを終えた鍋をかき混ぜると、白い湯気の向こうに、カウンター席がひとつ増えたように見えた。そこに座っていたのは、誰とも違う顔をした青年で、客たちの笑顔を少しずつ集めたような、やわらかな目をしていた。振り返ると、掲示板には見覚えのない紙片が貼られている。今日は一人で来ても大丈夫。隣の人に、少し話しかけてみよう。仕入れ帳の余白にも、同じ筆跡が増えていた。青年は息を呑んだ。器は客の欲望を映すだけではない。店そのものが、求められた輪郭を学び始めている。彼は迷いながらも、閉店の札を裏返さず、鍋に新しい出汁を注いだ。今夜は派手な盛りつけをやめ、麺の上に刻んだ香味野菜だけを置く。すると湯気がゆるく広がり、店内の鏡に映る顔が一斉に少しずつほぐれた。完璧すぎる輪郭は消え、代わりに客同士の表情が重なって見える。青年は、その変化を見届けながら、店は飾る場所ではなく、誰かが誰かに戻っていく場所なのだと気づき始めた。

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