「閉店、閉店っと……いや、全然締まってないな、これ」 湊は額の汗を手の甲でぬぐい、鍋の縁を指先でなぞった。客が引いたはずの店内には、まだつけ汁の余熱と、さっきまでの騒がしさの残り香がまとわりついている。厨房に立つと、ようやく自分の息が聞こえた。 まずは鍋。次にざる。最後にスープ容器。ひとつずつ点検して、欠けも歪みもないことを確かめる。どこにも異常はない。なのに、湯切りの網を持ち上げた瞬間、ちゃぽん、と落ちる水音に、空気がびくりと震えた。 「またか……」 湯気の向こうから、別の男が現れた。先ほどの男より少し鋭い目つきで、無言のまま棚へ向かうと、布巾を取り、すっと拭き始める。動きに無駄がない。むしろ、最初からそこにいる店員だったみたいに自然だ。 「いや、待て。お前、どこから来た」 男は答えない。ただ、拭き終えた棚を一瞥して、湊のほうへ視線を寄越す。その無言が妙に圧を持っていて、湊は背中をかいた。 「原因は麺だろ、原因は」 そう言い聞かせるように、湊は仕込み棚へ戻る。配合を少し変える。小麦粉の比率を変え、加水率を微妙にずらし、再び茹でる。湯が立ち上る。湯気が巻く。すると、さっきの男とは違う、やけに柔らかい目をした男が、今度は湯切り台の横に立っていた。 「雰囲気まで変わるのかよ……」 湊が呻くと、男はにこりともせず、ただ布巾を受け取って棚へ向かう。湊が味を濃くすれば、現れる気配は落ち着いたものに変わる。逆に軽くすると、空気まで少し浮つく。どれも礼儀正しい。どれも働く。けれど、そのたびに店の秩序がほんの少しずつずれていく。 「お前ら、もしかして俺の作る麺を待ってるのか……?」 返事はない。だが、次の一杯を茹でた瞬間、別の男がふっと姿を見せ、当然のように言った。 「呼ばれましたので」 「言ってない!」 「麺が、そう申しておりました」 「麺が喋るな!」 湊は頭を抱えた。厨房の端では、すでに棚を拭き終えた男が、今度は調味料をきっちり揃え直している。礼儀正しすぎるせいで、追い払う気も削がれるのが腹立たしい。 「くそ……一度でいいから、普通に閉店させてくれ」 そうぼやいた途端、湯気の向こうで三人目が小さく首を傾げた。店の空気はもう、湊ひとりのものではなかった。つけ麺を変えるたび、現れる気配は変わる。なのにどれも、確かにこの店を手伝っていた。湊は布巾を握りしめ、次の試しをするべきか、それとも今すぐ火を落とすべきか、答えの出ないまま立ち尽くした。
湯気の向こうのつけ麺店
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