「……待てよ」 営業ピークの店内は、湯気と声で息苦しいほどだった。湊は注文票を握りしめたまま、客席を見渡す。さっきから続く騒がしさの中で、ひとつだけ妙な共通点が見えてきた。 つけ麺を頼んだ客ほど、なぜか肩の力が抜けている。ひとりで来たはずの若い男は、いつの間にか笑っていた。スマートフォンを伏せたまま黙っていた女性客も、麺をすすった途端に表情をほどいた。喜んでいるのは味だけじゃない。最初にあの男たちを見た瞬間の、驚きと安心が、客の奥に残っている。 「麺そのものが、何かを呼んでるんじゃない」 湊は小さく呟いた。 「期待か……それとも、寂しさか」 誰に聞かせるでもない声だったが、湯気の向こうで、洗い場の男が一瞬だけ目を細めた気がした。湊は眉をひそめる。 「いや、待て。もしそうなら、普通の一杯で確かめればいい」 賄いなら、客の期待はない。自分ひとりで食えば、何も起きないはずだ。 そう思って、湊は閉店前の忙しさの合間を縫うように、厨房へ引っ込んだ。小鍋に湯を張り、麺を静かに泳がせる。つけ汁も、いつも通りだ。誰にも見せるためじゃない、自分のための一杯。 「よし。これで何も出なければ、偶然だ」 茹で上がった麺を器に移した、その瞬間だった。 湯気がふっと、甘い息みたいに揺れる。 「おかえりなさい」 湊は手を止めた。 厨房にいるはずのない男が、そこに立っていた。けれど今度の顔は、見覚えがありすぎて逆に息が詰まる。湊にそっくりな笑顔。口元の角度も、少し伏せた目も、自分が鏡の前でつくる営業用の笑顔そのものだった。 「……は?」 「お疲れさま、店主」 声まで似ている。 湊は思わず後ずさった。 「なんで、俺……」 「そっくり、ですね」 「そこじゃない!」 笑顔の男は、困ったように肩をすくめる。その仕草まで似ていて、湊は背筋がざわついた。自分の店なのに、自分の輪郭が薄れていくような感覚がある。客を満たすために作ったはずの一杯が、いつの間にか店主の形まで借り始めている。 「冗談じゃない……」 湊は器を見下ろした。麺はただ美味しそうに湯気を上げているだけだ。なのに、その湯気の奥に、店が静かにこちらを見返している気がした。 「俺の店が、俺を奪い返そうとしてるのかよ」 笑顔の男は答えない。ただ、湊の真似をするように柔らかく首を傾ける。 その仕草が、あまりにも自然だった。 客席からはまだ笑い声が聞こえる。熱気も、繁盛も、いつも通りだ。だが湊の胸の奥には、初めて冷たい決断が落ちた。 「……考えるか」 声に出した途端、現実味が増す。 「この店、いったん閉めるか」 賄いの湯気の中で、そっくりな笑顔がほんの少しだけ深くなった。まるで、答えを待っているみたいに。
湯気の向こうのつけ麺店
全年齢小説ID: cmnhh9bl8000m01motoiohxho
