青年は店を開け続けながら、古い記録をさらに洗った。帳簿の隅に残された薄い走り書きには、この店に寄る者は、味よりも先に誰かの気配を求める、とあった。笑って済ませるには妙に具体的で、彼は湯を沸かす手を止めた。昼の客たちは相変わらず多い。けれど最近は、食べ終えたあとに同じ顔を見合わせ、なぜか少し照れたように目を伏せる者が増えていた。会話は弾むのに、どこか浮ついている。鏡の奥には、知らない美青年が立っていることがある。だがそれを見た客は不気味がるどころか、なぜか安心したように息をつくのだった。 青年は厨房の片隅にある木箱を開け、器を取り出した。町で古くから伝わるその器は、美しさを映す代わりに、人の欲しい形を勝手に整えてしまう。なるほど、客たちは顔立ちの整った誰かを見たかったのではない。あの店に来れば、少しだけ自分を飾っても許されると、心のどこかで期待していたのだ。だからこそ、湯気の向こうに現れる幻に惹かれ、帰るころには言葉まで軽くなってしまう。 その夜、青年は店の灯を半分だけ落とした。いつもなら一人で食べる試作の麺を、二人前にして器へ分ける。片方には濃い目のつけ汁、もう片方には澄んだ出汁。どちらも同じ麺をくぐらせるのに、味はまるで違っていた。ひとつは気を張るための一杯、もうひとつは肩の力を抜くための一杯。彼はそれらを交互に口に運び、最後にひとつの椀へ混ぜた。すると不思議なことに、湯気の形が少しだけ丸くなった。 翌朝、開店前の暖簾の前には、常連が数人、なぜか他人同士で並んでいた。昨日まで会釈もしなかった二人が、順番を譲り合っている。青年が戸を開けると、湯気の向こうに端整な顔がひとつ、静かにうなずいた。だがそれは店員ではない。客たちが互いに交わした笑顔が、たまたま重なって見えたものだった。青年は少し考え、看板の下に小さな紙を足した。ひとりでも、ふたりでも、ここでは同じ鍋を囲める。 その日から店は少し静かになった。けれど客は減らない。むしろ、長居する者が増えた。湯気の向こうに見える美青年はときどき現れ、ふっと消える。誰かの理想を連れてくるのではなく、隣にいる誰かの輪郭をやわらかくするために。青年はそれを見届けながら、ここが人を飾る場所ではなく、人をつなぐ場所になったのだと、ようやく笑った。
湯気の向こうのつけ麺店
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