エラベノベル堂

湯気の向こうのつけ麺店

全年齢

小説ID: cmnhh9bl8000m01motoiohxho

6章 / 全10

閉店後の厨房は、昼間とは別の生き物みたいに静かだった。換気扇の低い唸りと、冷めきらない湯気の名残だけが、湊の耳にまとわりつく。彼はひとり、火の落ちたコンロの前に立っていた。 「……来いよ。最後まで見届けてやる」 自分に言い聞かせるように呟き、湊は残っていた麺を茹でた。賄いでも試作でもない、ただ見張りを続けるための最後の一杯だ。箸で麺をほどき、器に移し、つけ汁を注ぐ。湯気が立ち上る。その瞬間、厨房の空気がわずかに重くなった。 「またか……」 床板の下から、こつん、と鈍い音がした。次いで、まるで何かが長い眠りから押し上げられるように、床下の一角が持ち上がる。湊は息を呑んだ。木の板がずれ、古びた木箱が、ぎぎ、と苦しげな音を立ててせり上がってくる。 「おいおい、厨房にそんな仕掛け聞いてないぞ」 恐る恐る箱に手を伸ばす。蓋は湿った埃をかぶっていたが、錠はかかっていない。湊が指先で持ち上げると、箱の中から紙と墨の匂いが、乾いた時間みたいに立ちのぼった。 そこにあったのは、古い帳簿だった。黄ばんだ紙面に、達筆すぎて逆に怖い文字がびっしりと並んでいる。湊は思わず声を漏らした。 「なんだこれ……店の台帳、じゃない」 ページをめくるたび、土地の来歴や古い屋号、聞いたことのない人物名が現れる。最後のほうに書かれていた一文で、湊は指を止めた。 この場所は、ひとり客の願いを人の姿にして返す器である 「は……」 喉がひくついた。読み間違いかと思って、もう一度目を走らせる。だが次の行にも、その次にも、逃げ道のない言葉が並んでいる。湊は帳簿を抱えるように持ち直し、思わず笑ってしまいそうになった。 「器って……そんな、ホラーすぎるだろ」 けれど笑えなかった。これまでの異常が、ようやく一本の線でつながってしまったからだ。イケメンたちは偶然でも、客の気のせいでもない。この店は最初から、誰かの孤独を形にして返すようにできていた。 背後で、気配が動いた。振り向くと、湯気の薄膜の向こうに、いつもの整った顔がいくつも浮かんでいる。誰も大声を出さない。ただ、当然のようにそこにいる。 「……お前ら、知ってたのか」 ひとりが静かに目を伏せる。別のひとりは、まるで古い知己に向けるような穏やかさで頷いた。 「呼ばれたからです」 「呼んだ覚えはない」 「麺が、そう望みました」 「またそれかよ!」 怒鳴りながらも、湊の声は震えていた。帳簿を読む前なら、ただ怖がって終わっていたはずだ。だが今は違う。怖い。なのに、どこかで納得している自分がいる。誰かの寂しさを埋めるために、この店は働いてきたのかもしれない。 湊は帳簿を閉じ、器の湯気を見つめた。 「壊すべき、なのか……」 その呟きに、厨房の空気が答えることはなかった。だが、麺の上に揺れる湯気だけが、やけにやさしく見えた。

6章 / 全10

TOPへ