湊は帳簿を閉じたはずなのに、文字の重みだけが手のひらに残っていた。厨房の灯りは落としていない。なのに客席のほうから、ゆっくり近づいてくる気配がある。 「……まさか、まだ残ってたのか」 独り言にしては小さくない声だった。湊が顔を上げると、カウンターの向こうの暗がりで、いくつもの輪郭が同時に揺れた。湯気はもう薄い。それでも、そこに立つ男たちの整った横顔だけは、妙にはっきり見えた。 「お疲れさま、店主」 最初に口を開いたのは、初日に現れたのと同じ穏やかな声だった。 「全員、そろったのかよ」 「そろう必要がありました」 別の男が静かに答える。礼儀正しいのに、言葉だけが少し古い。 湊は息を吸った。怖い。けれど、帳簿を読んでしまった今、ただの怪異だと切り捨てるには、彼らの所作があまりに人間じみている。 「お前ら……何なんだ」 その問いに、男たちは一瞬だけ顔を見合わせた。まるで答えを順番に受け渡すみたいに。 「私たちは、麺と湯気に宿ったものです」 「ひとりで来た客が、心の中で思い描いた顔」 「安心できる相手」 「話しかけてもいい相手」 「ここにいると、少しだけ息ができる相手」 言葉が重なるたび、湊の喉がきしんだ。理屈ではない。だが、たしかに筋は通ってしまう。 「孤独な客の、理想像……ってことか」 誰かが小さく頷いた。 「そうです」 「誰かを安心させるために、ここへ生まれました」 「麺が呼ぶのは、願いの形です」 湊は思わず帳簿を胸に抱いた。そんなふうに言われると、恐怖だけではいられない。店を勝手に騒がせた張本人たちなのに、同時に、誰かの寂しさを受け止めてきた存在でもある。 「じゃあ……お前らは、客を喜ばせるためだけに出てきたのか」 「喜びだけではありません」 最初の男が、少しだけ目を伏せた。 「ひとりの夜に、何もないよりはいい。そういう願いです」 湊は返せなかった。自分が作っていたのは、うまい麺だけだと思っていた。けれど、この店に来る客の顔を思い出す。肩の力を抜いて帰っていった人たち。何かに救われたような、でもそれを自覚していない顔。 「……怖いのに、腹立つくらい納得できる」 吐き出すように言うと、男たちの表情がほんの少し柔らいだ。 「ありがとうございます」 「なんで礼を言うんだよ」 「受け入れるかどうかを、まだ考えているからです」 湊は顔をしかめた。見透かされたみたいで気に食わない。だが、否定もできない。壊すべきか、残すべきか。そのどちらにも手が伸びないまま、店内の静けさだけが濃くなる。 「店を守ってきた、ってことか」 湊の呟きに、今度は誰もすぐには答えなかった。代わりに、いちばん端に立っていた男が、丁寧に頭を下げる。 その仕草が、妙に優しかった。 湊は帳簿を見下ろし、それから再び彼らを見た。怖さは消えない。けれど、少なくとも今夜だけは、嫌悪だけで背を向ける気にもなれなかった。
湯気の向こうのつけ麺店
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