エラベノベル堂

湯気の向こうのつけ麺店

全年齢

小説ID: cmnhh9bl8000m01motoiohxho

8章 / 全10

青年は閉店後の厨房で、湯気の消えた鍋を見つめていた。客足は相変わらず絶えない。だがここ数日、食べ終えた客がそろって同じ顔をするようになった。安心したような、懐かしいような、妙に丸い表情だ。仕入れ帳には見覚えのない文字が増え、今夜の塩分は少し控えめでよい、隣席には薬味を多めに、と細かな指示まで並んでいる。青年は眉をひそめ、店の奥にしまってあった木箱を開けた。中の器は、触れた指先にまだ生ぬるい気配を残している。町の古い話を辿った先で、彼はようやく知った。この器は、見たいものではなく、欲しいものを映す。美しさを求める心をつけ汁のように受け止め、その代わりに人の縁を少しずつ狂わせるのだ。誰かが誰かを羨み、誰かが誰かを見失う。店の評判の裏で起きていたのは、そんな静かな歪みだった。ふいに、奥の湯気が膨らんだ。茹でた麺を上げたはずのざるの向こうに、もう一人、さらにもう一人と、店主そっくりの青年が立つ。つけ麺がつけ麺を食べに来たような、馬鹿げているのに目が離せない光景だった。だが彼らは麺には触れない。ただ互いの顔を見て、ほっと肩を落とす。そこで青年は気づいた。器が返していたのは理想の顔ではない。見つけてほしい、並んで食べたい、ひとりにしないでほしい。そんな言葉にならない願いの行き先だった。翌朝、青年は看板を下ろす代わりに、ひとつの新しい一杯を仕込んだ。昆布と鶏の澄んだ出汁に、焦がし葱と柚子の香りを落とし、麺は少し太めにする。つけ汁は濃すぎず、二人で分けても味がぶれないように整えた。最後に添えるのは、半分ずつ取れる小皿の具。飾るためではなく、会話を続けるための締めの一杯だ。昼どき、客はいつもより少なかった。だが席につくと、皆が自然に隣へ会釈をした。湯気の向こうに見えていた完璧な青年の姿は、今日はひとりではない。笑う客たちの輪郭が重なって、やわらかな幻になっている。食べ進めるほど、その幻は輪郭を失い、代わりに目の前の人の表情が少しずつ見えてくる。閉店間際、青年が鏡をのぞくと、そこには確かに端整な顔があった。けれどそれは誰か一人の顔ではない。今日、言葉を交わした客たちの笑顔が、湯気の向こうでひとつに結ばれていた。翌朝、店は以前より静かだった。だがその静けさは寂しさではなく、誰かを待つための落ち着きだった。常連は急がず、知らぬ者同士で箸を譲り合う。ときおり鏡に美青年が映っても、もう誰も驚かない。青年は暖簾を手で整え、今日も鍋に火を入れた。この店は、人を飾る場所ではない。湯気のなかで、ひとりずつを隣へつなぎ直す場所になったのだ。

8章 / 全10

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