エラベノベル堂

湯気の向こうのつけ麺店

全年齢

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8章 / 全10

湊は店の前で立ち止まり、手にしたドライバーを見下ろした。看板を外すなら今しかない。そう思って出てきたのに、夜の空気はやけに湿っていて、指先が少し震える。 「……畳むだけだ。店を壊すわけじゃない」 自分に言い聞かせ、シャッター脇のネジへ手を伸ばす。金属の冷たさが、妙に現実的だった。ところが、最後の一本を回そうとした瞬間、外からかすかなざわめきがした。 「え?」 湊が顔を上げる。店の外に、人影が並んでいた。ひとり、またひとり。深夜だというのに、駅前の明かりの下で列になっている。 「……何で、こんな時間に」 先頭の若い男が、少し照れたように笑う。 「閉まってるかと思ったんですけど、まだ灯りが見えたので」 その後ろの女性が、肩の力を抜くみたいに息を吐いた。 「ここで食べると、少し楽になるんです」 「分かる。今日は特に、寄りたくて」 口々に返る声は大きくないのに、どれも妙にまっすぐだった。湊はドライバーを持ったまま固まる。誰も騒がない。写真を撮る者もいない。ただ、少し疲れた顔で列に立ち、自分の番を待っている。 「楽になる、って……」 湊は呟いた。客たちはそれを否定しない。 「味も好きです。でも、それだけじゃないんです」 「ひとりで食べても、変に浮かないというか」 「店主さん、なんか、置いていかれない感じがするんですよね」 胸の奥が、じんと熱くなる。湊は初めて、今までの騒ぎを客の視点で見た気がした。イケメンが現れる異常さにばかり気を取られていたが、目の前の人たちは、面白がっているだけじゃなかった。ここに来て、ほんの少しだけ、息をしていたのだ。 「俺は……」 言いかけて、湊は息を呑む。麺を作ることが仕事だと思っていた。うまい一杯を出して、満足して帰ってもらう。それだけで十分だと。けれど、違ったのかもしれない。 「俺が作ってたの、麺だけじゃなかったのか」 誰に向けた言葉でもなかった。だが、列の誰かが小さく頷く。 「そう思います」 「少し休める場所、って感じです」 湊はシャッターの冷たい縁に手を置いた。外せば終わると思っていた看板が、今は妙に遠い。 「……そうか」 ぽつりと漏れた声は、驚くほど静かだった。怖さはまだある。店の正体も、これからも、簡単には飲み込めない。だが、客がここでひと息ついているなら、壊す理由はもう弱くなっていた。 湊はドライバーを握り直す。 「畳むのは、やめる」 列の先頭が、ほっとしたように目を細めた。湊はシャッター脇のネジから手を離し、看板の端を見上げる。 「続ける。ちゃんと、この店として」 夜の明かりの下、店の前の列は静かに待っていた。湊はその視線を受け止めながら、初めて、店の異常を拒むのではなく抱え直す覚悟を固めていった。

8章 / 全10

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