エラベノベル堂

軽音部、はじめての放課後

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8章 / 全10

「これでだいぶいける」 結城先輩の声が落ちたあと、部室には妙に静かな時間が流れた。衣装のしわが伸びた布は、さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに整って見える。けれど、私の胸の奥ではまだ小さなざわつきが残っていた。 「いける、って言われると安心しますけど……」 私が言いかけると、鈴木先輩が肩を回しながら笑う。 「でも、やること自体はまだあるんだよね」 「あるね」 藤堂先輩が机に頬杖をついた。 「学園祭の前夜って、終わりそうで終わらないのが怖い」 その言葉に、私は思わず視線を落とした。手元のメモは、今日の修正点でほとんど埋まっている。線を引いて、書き足して、ようやく形になった一覧だ。 「七瀬さん、顔が固い」 結城先輩に言われて、私ははっとした。 「すみません。やっぱり、少し緊張してて」 「そりゃするよ」 小野寺先輩が、差し入れの袋から個包装のお菓子を取り出した。 「でも、眠れないほどなら、少しは食べたほうがいい」 「え、これ、差し入れなんですか」 「うん。冷めてもおいしいやつ」 机の上に並んだ甘い香りに、空気がわずかにほどける。誰かが持ってきた缶の温かさ、紙袋のやわらかな音、ひと口で食べられる大きさの安心感。そんな些細なものが、部室の緊張を少しずつ吸い取っていく。 「私、正直に言うとさ」 藤堂先輩が袋を開けながら、ぽつりと言った。 「失敗したらどうしようって、ずっと考えてた」 「藤堂先輩でも?」 「うん。だって本番って、練習と違うじゃん」 鈴木先輩が苦笑する。 「わかる。人前で間違えたらって考えると、急に指が言うこと聞かなくなる」 私はお菓子をひとつ受け取り、包みを半分だけ剥いた。 「私も、ずっとそれです。頭の中で、何回も変なところだけ再生されて」 「あるある」 結城先輩が即答した。 「でもさ、失敗のことばっかり数えると、楽しいはずのものまで薄くなるよ」 「楽しいはずのもの」 私が繰り返すと、先輩は少しだけ笑った。 「みんなで舞台に立つって、たぶんそれ自体がもう楽しいんだと思う。うまくいくかどうかだけじゃなくて、一緒に同じ時間を作るのが」 その言葉に、私はお菓子を持ったまま黙った。 うまくできるかは、まだこわい。けれど、こわいからこそ、ここに集まっているのかもしれない。 小野寺先輩が湯気の立たない紙コップを見つめて、静かに言う。 「前も、今も、だいたい騒がしいけど。こうしてると、悪くない」 「小野寺、それ褒めてる?」 鈴木先輩が笑う。 「褒めてる」 即答だった。 藤堂先輩も、口の端を上げる。 「たしかに。前夜にひとりで震えるより、こっちのほうがずっといい」 私は思わず笑ってしまった。さっきまで重たかった不安が、誰かの言葉に触れるたび、少しずつ輪郭を変えていく。 「じゃあ、もう怖がるのは半分くらいでいいか」 結城先輩がそう言って、缶のふたを軽く鳴らした。 「残り半分は、楽しむために取っておこう」 「そんな器用な分け方あります?」 「ある。たぶん」 部室のあちこちから笑いがこぼれる。私はその輪の中で、もう一度だけお菓子をかじった。甘さが思ったよりやさしくて、胸の奥のかたくなった部分が少しほどける。 窓の外では、校舎の灯りがぽつぽつと増えていた。明日になれば、きっともっとざわつく。けれど今、この部室だけは、不思議なくらい落ち着いている。 「七瀬さん」 結城先輩に呼ばれて顔を上げると、先輩はいつものように軽く笑っていた。 「明日、ちゃんと来てね。みんなで立つんだから」 「はい」 私は、今度は迷わずうなずいた。 失敗より先に、楽しみが少しだけ勝っている。そんな夜があるなんて、入部した頃の私は知らなかった。

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