エラベノベル堂

軽音部、はじめての放課後

全年齢

小説ID: cmnhinxji000001mzao30hnxr

8章 / 全10

学園祭の前夜、部室の戸を開けた瞬間、美咲は湯気のような甘い匂いに包まれた。差し入れの紙袋が机の上に並び、缶の温かさと冷えたゼリーがひとつの景色になっている。誰もが疲れているはずなのに、誰も帰ろうとしない。 「眠れない人、全員ここ集合って感じだね」 元気な先輩がマドレーヌを一つ掲げた。眼鏡の先輩は、包装の端をきれいに揃えながらうなずく。 「明日より今のほうが緊張するの、あるよね」 ドラムの先輩はココアを受け取ると、無言のまま一口飲んだ。いつも通りそっけないのに、今日はその沈黙が妙にやさしい。 美咲はカップを両手で包み、座布団の上に腰を下ろした。今日一日、何度も確認した譜面、衣装、導線。頭の中では全部そろっているのに、目を閉じると、失敗だけが大きくなる。 「もし、途中で飛んだらどうしようって思っちゃって」 小さくこぼすと、机の向こうで穏やかな先輩が笑った。 「飛んだら戻ればいいよ。音楽って、そういうものだし」 その言葉に、部室の空気が少しほどける。元気な先輩が天井を見上げた。 「私はさ、失敗するのも怖いけど、明日が終わるのも嫌なんだよね」 「珍しく素直」 眼鏡の先輩が茶化すと、元気な先輩は唇を尖らせたが、すぐに笑った。 「だって、みんなで立つのって楽しいじゃん。ああいうの、一回やると忘れにくいし」 美咲はその言葉に、胸の奥がじんわり温まるのを感じた。うまく弾けることばかり考えていたはずなのに、いつの間にか大事なのは、同じ舞台に向かって並ぶ時間だったのだと思えてくる。 穏やかな先輩が、差し入れの袋から星形のクッキーを取り出した。 「これ、昨日焼いたんだ。衣装に合わせて、ちょっとだけ甘くした」 「衣装に味付けする人、初めて見た」 ドラムの先輩が低く言うと、みんなが噴き出した。笑い声が狭い部室に広がり、窓の外の暗さを少しだけ遠ざける。 やがて誰かが、明日の出番の順番をもう一度口にした。確認のはずが、いつの間にか本番後に何を食べるかという話になり、最後には誰が一番最初に泣きそうかでじゃれ合っていた。 「たぶん美咲」 「なんで私」 「目がもうやばい」 「それは眠いだけ」 時計の針は確かに進んでいるのに、不思議と焦りは増えなかった。失敗の輪郭より、笑っている顔のほうがずっとはっきり見える。美咲はカップの底に残った甘さを飲み切り、静かに息を吐いた。 明日が怖くないわけじゃない。けれど、それ以上に、みんなであの光の下に立つのが楽しみだ。 そのことに気づいたとき、眠れない夜は、もうただの不安な夜ではなくなっていた。

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