私は翌日、ひとりで映画館へ向かった。昨夜の停電で、あの不思議な音の正体は見えた。けれど、館長の顔に残った影が、どうしても気になっていた。 ロビーに入ると、今日は機械の唸りより先に、静けさが迎えた。館長はカウンターの下で古いフィルム缶を磨いていたが、私を見るなり手を止めた。 「また来たのか」 「うん。まだ聞きたいことがある」 「……勝手にしろ」 私は迷わず切り出した。 「同じ映画ばかり流してたの、古い演出を残したかっただけじゃないでしょ」 館長の肩が、ほんの少しだけ固くなる。 「何を見つけた」 「来週の催しの紙。それと、前に挟まってたメモ。守るしかなかったって言ってたよね」 彼は長く黙ったあと、客席の暗がりへ目を向けた。まるで、そこに返事を預けるみたいに。 「……あの作品は、家族で何度も見た。配給が止まったあとも、これだけは残った。あの映画を流している間だけは、ここに帰ってこられる気がしたんだ」 その言葉に、私は息をのんだ。いつものぶっきらぼうな声が、急に遠く感じる。館長は続けた。 「亡くなった家族と、最後に笑って見た映画だ。上映が終わるたび、同じ音楽が流れて、同じ場面で笑っていた。だから変えるのが怖かった。変えたら、いっしょにいた時間まで薄れる気がしてな」 私は、からかう言葉を飲み込んだ。いつもなら、また同じ映画なのと笑ったかもしれない。けれど今は違った。ここに残っていたのは、頑固さじゃなく、喪失を抱えたまま立っている人の静かな祈りだった。 「そっか」 私は小さく言った。 「じゃあ、同じ映画じゃないと困る日もあるんだね」 「笑うなら、今じゃない」 「笑わないよ」 私はカウンターの端に置かれたマグカップを見た。少し欠けている。誰かがずっと前に使っていたみたいな、古い癖の残る形だった。 「でも、ずっと一人で抱えてたら、映画館もしんどいよ」 館長は黙ったまま、私を見た。その目が、初めて弱さを隠していないように見えた。 私は胸の中で、ひとつ思いついていた。昔の映画をそのまま流すんじゃない。家族の思い出も、昔の仕掛けも、来る人たちに少しずつ分ければいい。誰かの寂しさを隠す場所ではなく、受けとめられる場所にするのだ。 「ねえ館長。次の上映、ひとりで決めないで。私も手伝う」 館長は最初、困った顔をした。けれどやがて、あのぶっきらぼうな口元が少しだけほどける。 「子どもに任せるには、重い話だ」 「でも、ひとりで持つにはもっと重いでしょ」 その瞬間、ロビーの奥から、かすかな音がした。もう怖い囁きではない。古い音楽の、あたたかい出だしだった。まるで亡き家族が、まだここで笑っているとでも言うように。館長は目を閉じ、短く息を吐いた。私はその横顔を見て、初めて彼が少しだけ救われたのだとわかった。
古い映画館の声
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