エラベノベル堂

旧校舎の壁画と失踪

全年齢

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9章 / 全10

壁画の前に立った佐伯は、何も言わずにポケットから折りたたまれた紙を取り出した。真鍋が思わず身構える。だが佐伯は苦笑して、その紙を壁の下へそっと置いた。 「ここまで来たなら、もう隠す必要はないよ」 紙には、旧校舎の記録室から始まる小さな手順が書かれていた。文化祭の片付けが終わった後、壁画の前に残された卒業生の名簿を並べ、最後にこの一枚を戻すこと。そうすると、忘れられかけた思い出が、絵の中で正しい場所に収まるらしい。失踪でも怪異でもなく、学園の歴史を守るための、地味で手間のかかる儀式だった。 僕は紙面を見下ろした。そこには、佐伯の字で、僕たちに黙っていた理由も添えられていた。騒ぎになれば、旧校舎はまた危険な場所として封じられる。そうなれば、先輩たちが残してきた寄せ書きも写真も、全部まとめて消える。だから一度だけ、誰にも知られないまま仕上げるつもりだったのだという。 真鍋がため息をついた。 「それなら、最初から言えよ」 「言ったら止められると思った」 佐伯の答えに、僕たちは呆れて、それから少し笑った。壁画の笑顔はいつも通り穏やかで、けれど今は、その穏やかさが誰かをだますためのものではないとわかる。僕たちは佐伯の指示に従い、広間の隅からアルバムと名簿を運び出した。真鍋は額に汗をにじませながらも、ひとつも落とさないよう慎重だった。僕は壁の前に座り込み、卒業生の名前を順に確かめた。 その途中で、校内放送の誤作動が鳴った。低い雑音のあと、誰かの悲鳴に似た声が重なり、校舎じゅうが一瞬だけざわつく。だが、それもすぐに収まった。原因は、文化祭の機材を片付け忘れた生徒たちの小さな混乱だったらしい。騒動は大げさに膨らんでいたが、実際には、みんなが少しずつ誤解していただけだった。 最後の名簿を壁の下に置いた瞬間、描かれた生徒たちの輪郭がやわらかく揺れた。空白だった一角には、佐伯の姿が静かに加わる。だが、それは消えた彼の代わりではない。今ここにいる僕たちが、彼をどう見ていたかを映した顔だった。 「終わったな」 小林先生が遅れて広間に入ってきて、ほっとしたように肩を下ろした。先生の背後には、見回りをしていた生徒会の面々や、騒ぎを聞きつけた文化祭実行委員まで顔をのぞかせている。みんな、最初は不安そうだったのに、壁画が静かに変わっていくのを見て、次第に表情をやわらげていった。 佐伯は壁を見上げたまま、少しだけ目を細めた。 「これで、ちゃんと残せる」 僕はその言葉に、ようやくすべてがつながった気がした。消えたように見えた時間も、置き去りにされた思い出も、誰かが守ろうとした気持ちも、全部この広間に集まっていたのだ。旧校舎は怖い場所ではなかった。ただ、忘れられたくないものを、静かに抱えていただけだった。 夜明け前のように薄い照明の下で、壁画は新しい一枚として息をした。そこにはもう、不安を煽る歪みはない。代わりに、文化祭の夜をやり切った生徒たちの、少し疲れた笑顔が増えていた。学園じゅうを巻き込んだ騒動は、こうしてようやく収束した。最後に残ったのは、消えた謎ではなく、確かにここで生きた証だけだった。

9章 / 全10

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