山の中腹で、空気の色が急に変わった。さっきまで見えていた尾根は白い霧に呑まれ、荷車の軋む音だけが頼りだった。吉蔵が先を見ようと目を凝らすが、世界は布をかぶせたようにぼやけている。三輪が地図を開いても、湿気で紙がふやけ、折り目の記憶まで鈍っていく。 「止まろう」 三輪の声に、六人は岩陰へ身を寄せた。だが休めば休むほど、どちらへ進むべきか分からなくなる。風が吹くたび霧は流れ、見えたと思った道はすぐ消えた。 「右だ」 吉蔵が言う。 「いや、さっき左の木に印をつけた」 千代が返す。 「木など全部同じ顔だ」 石田が肩をすくめた。 それでも誰も諦めない。地図を守り、荷を守り、互いの顔色まで気にかける。その不器用な真剣さが、かえって場を重くしていた。 そのとき、千代がふと思い出したように、荷袋の奥から古びた星図を取り出した。港町で若いころ手に入れたものだと言う。紙は黄ばんでいたが、星の並びだけははっきり残っている。 「今は空が見えん。でも、さっきの風は北から回っていた。ここでこの星図を重ねると、尾根の向きが分かるはずだ」 「星を見るのに空が要らんのか」 吉蔵が目を丸くする。 「要るさ。ただ、見えない時のために覚えておくんだ」 三輪はその星図を受け取り、霧の中で腕を伸ばした。天動説を信じて空を眺めてきた男の目が、今は大地の気配を読むほうへ向いている。だが、その変化を誰も裏切りとは思わなかった。空は回る。けれど道は止まらない。見えない時には、見えたものをつなげて進めばいいのだ。 「では、あの一番高い岩の向こうだな」 三輪が指を差すと、霧の切れ目に、かすかな星明かりのような白い筋が見えた。そこが道だった。 「よし、星はまだ働いておる」 石田が笑う。 「空も地も、片方だけでは不便だ」 千代が答えた。 吉蔵は鼻を鳴らし、だがどこか嬉しそうに望遠鏡を肩に担いだ。 「天が回るなら、こちらも回り方を変えるまでだ」 六人は声を掛け合いながら、霧の裂け目へ歩き出した。足元は危なっかしいのに、さっきより迷いがない。信じてきたものを捨てたわけではない。ただ、信じるための道具がひとつ増えただけだった。 やがて、霧の奥で鐘のような低い音がした。誰かの笑い声にも聞こえる、不思議な響きだった。三輪が立ち止まり、耳を澄ます。 「今のは、山の向こうか」 「いや」 吉蔵がゆっくり首を振る。 「わしには、空のほうから聞こえた」 六人は顔を見合わせた。世界の見え方は一つではない。その気づきは、思ったより軽やかで、思ったより遠くまで響いていた。
天動説老人の珍道中
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