客室へ続く細い通路は、船の傾きに合わせてどこか現実離れした坂道になっていた。人の列が絶えず、壁に手を触れながら進むたび、靴底の感覚が頼りなく揺れる。レオンは乗客の流れを見送りながら、舞台袖から出てきた年長のチェリスト、エドガーに気づいた。彼はいつも通り背筋を伸ばしていたが、右腕だけは胸元に抱えたケースを離そうとしない。 そのケースの中には、彼が若いころから弾き続けてきた一本の楽器がある。艶のある木肌は、照明を受けるたび深い海の色を返した。だが今夜の揺れで、開けるたびに小さく軋む。エドガーはそれを気にしながらも、視線だけは何度も、隣を歩くミナへ向けていた。彼女はまだ二十代で、指の速さと柔らかな音色には定評があったが、今は唇を結んでいる。避難の案内を終えたばかりなのだろう、肩で息をしていた。 「持っていけ」 唐突な言葉に、ミナは目を見開いた。エドガーはケースを差し出しかけ、すぐに引っ込めた。その動きには、惜しさとためらいがそのまま残っていた。 「あなたの音なら、この子も生きる」 ミナは首を振った。そんな大切なものを受け取れるはずがない。楽器は道具ではなく、持ち主の年月を身にまとったものだと、彼女にも分かっていた。磨かれた指板、擦れた縁、わずかに欠けた角。その一つ一つが、無数の夜をくぐり抜けた証のように思えた。 エドガーは苦く笑った。 「私にとっては、もう少し重すぎる。だが、捨てるつもりはない。託すんだ」 その声は震えていた。長く連れ添ったものを手放す痛みと、それでも渡したいと願う信頼が、同じ音で混じっていた。ミナはケースを受け取らず、ただそっと手を添えた。木の冷たさが掌に伝わる。すると、彼女の目がわずかに揺れた。そこにあるのは楽器の重さだけではない。誰かが積み重ねてきた時間の重みだった。 「これは、まだ終わっていないんですね」 エドガーはうなずいた。たとえ今夜を越えても、この船で生まれた音は消えない。誰かの手に渡り、別の舞台で鳴り続けるなら、それは続きだ。レオンは二人を見て、言葉を挟まなかった。ただ、避難の合図とともに再び前へ進むよう促すだけだった。 そのとき遠くの甲板側から、思いがけないほど澄んだ音が漏れてきた。誰かが残した一音が、沈黙の廊下を一本の糸のように貫いた。ミナは息を呑み、エドガーは初めて完全にケースから手を離した。託されたのは楽器ではなく、時間そのものだった。彼女はそれを抱え直し、泣きそうな顔で、しかし確かにうなずいた。
沈みゆく船と楽団
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