エラベノベル堂

沈みゆく船と楽団

全年齢

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7章 / 全10

通路の曲がり角で、ソフィアは泣き崩れそうな若い母親の腕に縋る幼い兄妹を見つけた。兄のほうは唇を噛み、妹は母のスカートの裾を握ったまま、船のきしみに肩をすくめている。ソフィアは一瞬だけ迷い、抱えていた譜面を胸に当てた。舞台なら、今の自分にできるのは音を正確に並べることだった。けれど、この船ではそれだけでは足りない。彼女は近くの空いた椅子を引き寄せ、三人の前に腰を下ろした。 「少しだけ、静かな曲をします」 声は思ったより落ち着いていた。ミナが立ち止まり、すぐに意図を察して頷く。エドガーの向こう側から届くかすかな誘導の声を背に、ソフィアはヴァイオリンを肩に乗せた。弓を引くと、狭い空間にやわらかな旋律がほどける。大きな広間で鳴る華やかな音とは違う。耳元で誰かがそっと息を整えてくれるような、小さな子守歌だった。 最初に変わったのは、子どもの呼吸だった。妹はしゃくり上げていたが、音が続くうちに胸の上下が少しずつ静かになる。兄は最初こそ警戒していたものの、やがて椅子の背に手を置き、音の流れを追うように目を上げた。母親は涙をこらえきれずにいたが、肩の震えは目に見えて弱まっていた。 ソフィアは難しい旋律を選ばなかった。指先に覚えた古い子守歌、故郷で眠れない夜に祖母が口ずさんでくれた短い節を、波のように繰り返す。すると、その周囲にいた乗客たちも足を止めた。誰かが深く息を吸い、誰かが握りしめていた手をほどく。恐怖は消えない。それでも、呼吸の速さが変わるだけで、人は少し前へ進める。 レオンがその様子を見つけ、遠くから小さく合図した。演奏を続けろ、という合図ではない。ここで支えろ、という合図だった。ソフィアは弓を動かしながら、ようやく自分の役目の輪郭を理解する。音楽は客席を満たすためだけにあるのではない。震える手をつなぎ、歩幅をそろえ、誰かの夜を越えるためにある。 そのとき、船の奥で甲高い警笛が鳴った。誰もが身を強ばらせたが、兄妹はもう泣かなかった。妹はソフィアの膝に小さな手を置き、兄はその手を握り直した。母親は深く息を吐き、足元を見据える。音が終わるより先に、彼らは立ち上がる準備を始めていた。 ソフィアは最後の一音を、夜に沈む灯りのように細く長く引いた。静寂が戻ったあとも、そこには確かな温度が残っている。彼女は楽器を抱え直し、子どもたちに微笑んだ。次の瞬間、通路の向こうへ人の流れが再び動き出す。小さな音楽会は終わったのではない。避難する者たちの胸の中で、まだ続いていた。

7章 / 全10

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