エラベノベル堂

ホールに響く真実

全年齢

小説ID: cmninstwt003m01mzry1k87h9

6章 / 全10

本番の三十分前、蓮は調律室へ戻ろうとして足を止めた。ホール中央の控室から、乾いた声が廊下を裂いたからだ。 「もう結構だ。あの調律師を外せ」 扉の隙間から見えたのは、会場を束ねる立場にいる男の険しい横顔だった。奏者や舞台係が息を飲む気配が伝わる。男は蓮を指さし、低く言い放つ。 「楽器の乱れは、こいつが仕込んだ。リハーサルでも本番直前でも触れ回っていたのはお前だろう」 蓮は言葉を失った。周囲の視線が一斉に集まり、逃げ場がなくなる。昨日まで積み上げてきた記録も、点検の跡も、ひとつの濁流に押し流されていくようだった。 「違います」 それだけを返す声は思ったより静かで、自分でも驚くほどだった。だが誰も耳を貸さない。会場の中心にいる者が口を開けば、それが事実になる空気が、このホールには根強く残っている。 蓮は一歩引かれたように廊下へ下がった。仲間だと思っていた人々も目を伏せる。まるで彼の影まで汚れたものと見なすように。けれど、その孤立は奇妙に澄んでいた。誰の声も届かないぶん、微かな音だけが耳に残る。 蓮は舞台袖へ向かい、足音を殺してピアノの脇へ回った。蓋の縁に触れると、昨日までなかった指の引っかかりがある。鍵盤の戻りも、わずかに軽すぎる。彼は弦の間へ細い鏡を差し込み、光を滑らせた。すると、誰の目にも映らない奥のフェルトに、新しい圧痕が見えた。高音域だけ、細い針のような跡が連なっている。 さらに響板の隅には、乾いた粉が薄く積もっていた。湿度を狂わせるために置かれた小さな装置の影響だろう。だが本当に蓮の息を止めたのは、その装置ではなかった。装置を外した後に残るはずの留め具が、内側から外された形跡ごと消えていたのだ。つまり、誰かが楽器の内部に入り、跡を残さぬように二重に手を加えた。 蓮は工具を持つ手を止めたまま、背後の暗がりを見た。そこには舞台の華やかさとは別の、冷たい算段が横たわっている。犯人にされてもなお、音は真実を隠さない。微かな摩耗、押し戻された繊維、消しきれない粉の筋。それらはすべて、誰にも見えない場所で行われた工作の証だった。 廊下の向こうで、開演を告げるベルが鳴る。蓮は深く息を吸い、鏡をそっと閉じた。孤独の底で見つけた痕跡だけが、彼を次の一手へ押し出していた。

6章 / 全10

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