エラベノベル堂

ホールに響く真実

全年齢

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7章 / 全10

コンクールの前日、控室の空気は張りつめていた。蓮が調律を終えて廊下へ出ると、壁際で一人の若い演奏家が楽譜を抱えたまま立ち尽くしているのが見えた。奏だ。幼なじみとしてではなく、今は同じ舞台を知る者として、彼女の肩はひどく固かった。 「眠れていないだろ」 蓮がそう言うと、奏は苦笑した。笑おうとして失敗した顔だった。明日の本番で優勝候補と見なされている彼女は、誰よりも注目を浴びていた。周囲は期待を口にし、関係者は勝利を当然のように語る。だがその言葉が増えるほど、奏の呼吸は浅くなっているように見えた。 「勝たなきゃ、意味がないって思われるのが怖い」 蓮は少し黙った。ホールの奥から別の演奏者が弦を確かめる音が届く。高まる競争心は、まるで火薬の匂いみたいに空間を満たしていた。 「勝つことだけを追うと、音が誰かの顔色をうかがうようになる」 蓮は控えめに言った。 「本当に守るべきなのは順位じゃない。自分の音だ。自分がどんな気持ちで弾いたかを失ったら、たとえ一番でも残るものが薄くなる」 奏は顔を上げた。蓮は続ける。 「調律も同じだ。周りに合わせるだけなら簡単だけど、楽器が本当に鳴りたい響きは別にある。無理に整えすぎると、音はきれいでも生きている感じが消える」 その言葉に、奏の指先がわずかに緩んだ。彼女は楽譜を胸に抱き直し、ようやく本当の息を吐いた。 「私、ずっと誰かの期待に合わせようとしてた。だから、弾くたびに自分が薄くなる気がしたのかもしれない」 「薄くなるな。音は、薄いとすぐに消える」 その瞬間、背後の扉が開き、首席奏者が静かに立っていた。彼は蓮たちを見て、いつもの厳しい目を細める。 「勝つだけの音は、観客にも残らん」 意外な言葉だった。奏が目を丸くする。首席奏者は続けた。 「だが、自分の音を守れない者は、このホールでは長くもたん。明日は、怖くても自分のままで弾け」 廊下の先で、コンクール運営の号令が響いた。奏はゆっくりうなずき、蓮に小さく頭を下げる。そして舞台へ向かう背中は、先ほどまでより少しだけ軽く見えた。 蓮はその姿を見送りながら、胸の奥でひとつ確信した。競争の熱が高まるほど、人は音を失いやすい。けれど、誰かが一度でも自分の音を信じ直せば、流れは変わる。彼は調律鍵を握り直し、次に鳴る一音のために、静かに歩き出した。

7章 / 全10

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