エラベノベル堂

仮面夜会の招待状

全年齢

小説ID: cmnk3vqlk000001l6lzhst3iq

8章 / 全10

視線の意味が、ようやく輪郭を持ちはじめた。アカネは仮面の奥で息を整えながら、誰かが自分を見ている気配だけでなく、誰がどんな距離でそれを見ているのかまで感じ取れるようになっていた。笑いながら近づく者は、たいてい何かを測っている。黙って通り過ぎる者は、むしろ何かを知っている。居心地の良さは甘い湯気のように広がるのに、その底には、指先に触れれば熱いものが沈んでいる。 広間の片隅で、黒い仮面の男が静かにこちらを見た。以前ならただ気になるだけだった視線が、今は違って感じられる。彼がこちらを気にかけているのは確かだが、それが優しさなのか監視なのか、まだ判別できない。判別できないからこそ、胸の奥が落ち着かないのだ。 「慣れてきたみたいだね」 近くを通ったワイン色の仮面の女性が、扇の影で笑った。 「ええ。でも、慣れるほど安全とも思えません」 「賢いわ。ここは安心をくれる場所じゃない。ただ、安心したくなるようにできているだけ」 その言葉に、アカネは小さく息を呑んだ。確かにそうだ。誰もが丁寧で、空気は柔らかい。けれど、どの沈黙にも意味があり、どの会話にも余白がある。その余白に、見るべきではないものがひそんでいる。今まで見て見ぬふりをしていた視線の重なりが、突然、一本の線のようにつながっていく。 誰かが彼女の名前を、まるで合図のように口にした。振り向けば、そこにはもう別の話題が転がっている。けれど耳に残ったのは、その響きに混じっていた妙なためらいだった。呼ぶ側もまた、迷っていたのだろう。知らないふりを続けるべきか、それとも踏み込むべきか。ここではその迷いさえ、ひとつの礼儀として扱われる。 アカネは気づいてしまった。自分はこの場所に馴染みつつある。仮面の下で交わされる距離感に、どこか救われてもいる。素顔をさらさなくていい気楽さと、何かを隠している緊張。その両方が、妙に心地よい。だからこそ危ういのだ。 胸の奥が静かに揺れた。黒い仮面の男の言葉も、意味深な札も、すべてが自分の中で反響している。知りたい。けれど、知ること自体に引き寄せられている気もする。アカネは初めて、自分の感情が、この夜会の空気に撫でられるだけでなく、確かに揺さぶられているのを自覚した。 それは怖さだった。けれど、同じくらい、離れがたい熱でもあった。

8章 / 全10

TOPへ