男の小屋を出るころには、森の空気が少しだけ白んでいた。助かったのだと胸をなで下ろしたいのに、喉の奥にまだ粘つくような違和感が残っている。歩くたび、足裏の感触がわずかにずれている気がした。自分だけがまだ、世界の端を踏み外しているようだった。 男は町まで送っていくと言い、僕はその背を追った。森を抜ける細い道には、同じ方角へ向かう旅人がぽつりぽつりと現れ始めていた。荷物を背負った商人、杖をついた老人、土埃まみれの若い女。誰もが似たような顔をしている。疲れた目の奥に、警戒と焦りが同居していた。 やがて一人の旅人が道端に座り込み、膝を抱えてうめき声を漏らした。顔色は悪く、指先が微かに震えている。男がしゃがみ込み、様子を確かめると、旅人は掠れた声で言った。朝から視界が揺れて、足元が水の上みたいに頼りない。荷を落としてからずっと、この調子だと。 男の表情が険しくなる。お前もか。そう呟いた声は低かった。別の旅人も、近くの荷馬車の陰から同じように顔を出した。耳鳴りが止まらない。寒気が抜けない。森の水を飲んでからおかしい。口々に訴えるその様子は、まるで病が見えない糸でつながっているみたいだった。 僕は立ち尽くした。あの粘液に触れたのは自分だけではない。しかも、被害は森の中だけで終わっていない。道を行く人間にまで、じわじわと広がっている。 町の門が見えたのは、その直後だった。石造りの壁の上では見張りが忙しく動き、門前には足を止める者の列ができている。荷車はひとつずつ調べられ、怪しい水袋は取り上げられ、通行人は互いに距離を取っていた。誰かが小声で、スライムが増えているらしい、と言う。別の誰かは、触れたら魔力を吸われる、と顔を強張らせた。 僕は思わず手を握りしめた。これは自分の不運ではない。世界のどこかで、同じ痛みを抱える人間が増えている。ならば、逃げているだけでは終われない。助けてもらった借りも、まだ返していない。 町へ入る列の最後尾で、男は静かに僕を見た。今度はお前も、見て見ぬふりはできないだろう。そう言われた気がして、僕はうなずいた。視界の先、門の向こうでは新しい騒ぎが始まっている。その中心に、僕が知らない何かがある。
粘液の異世界迷宮
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