遺跡の広間に残された札を、僕は指先で持ち上げた。紙は湿っていないのに、妙に冷たい。戻れ、という二文字だけが、ここへ来た者を見透かすように静かに沈んでいる。男は舌打ちし、壁際の刻印へ視線を走らせた。装置は壊れている。だが、壊れたからこそ、流れが暴れているのかもしれない。 僕は床に広がる粘液の痕を見つめた。町で読んだ記録が頭の中でつながる。魔力循環に干渉するなら、逆に流れを整えれば弱められるはずだ。押し流すのではなく、受け止めて逃がす。森で感じたあの揺れは、体の奥で巡りが乱される感覚だった。ならば、乱れを鎮める道もある。 問題は方法だ。僕は遺跡の壁に刻まれた図式をなぞり、崩れた管の向きを見た。ここには、魔力を集めるための道筋がある。集めるなら、分けることもできるはずだ。僕は足元の砂を掬い、細い溝へ少しずつ落としてみた。すると、砂は一部だけが滑るように吸われ、別の場所で止まった。流れが偏っている。なら、そこへ別の流れを与えればいい。 男が僕の動きを見て眉を上げた。何をする気だ。僕は答えの代わりに、壁のひびへ掌を当てた。冷たい石の向こうで、かすかな脈動がある。遺跡が生きているというより、何かを閉じ込めている感触だった。僕は息を整え、粘液に触れたときの鈍い重さを思い出す。あれをただ避けるだけでは、追われ続ける。けれど性質がわかれば、鎮める札にもなる。 広間の奥から、再びぽちゃんという音がした。ひとつではない。崩れた通路の影で、透明な体がゆっくりと揺れている。だが以前と違い、僕の視界は乱れなかった。恐怖はある。それでも、どこへ流れを寄せればいいか、輪郭が見え始めていた。 僕は男に頷き、溝の先を指さした。あそこだ。流れを集めるなら、逆側に逃がせる。男は一瞬だけ目を細め、それから短剣を握り直した。よし、試してみろ。失敗したら、その時は斬る。 笑いそうになって、喉の奥で飲み込んだ。死に急ぐにはまだ早い。僕は崩れた装置の部品を並べ替え、刻印の向きを少しずつ変えた。遺跡の奥で、眠っていた何かがゆっくり息を吹き返す。けれど今度は、僕らが逃げる側ではない。追ってくる異常の流れを、こちらが掴み返す番だ。
粘液の異世界迷宮
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