エラベノベル堂

粘液の異世界迷宮

全年齢

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8章 / 全10

遺跡の広間に、透明な波が押し寄せてきた。崩れた通路の奥から、ぽちゃん、ぽちゃんという音がいくつも重なり、床をなめるように広がっていく。数は前より多い。だが、僕の目はもう泳がなかった。恐怖はある。それでも、逃げるだけでは何も変わらないと、体の芯が静かに告げていた。 男が短剣を構え、僕は事前に並べ替えた遺跡の部品へ手を伸ばした。古い金具を溝にはめ、割れた水晶の向きを変える。すると、床の刻印が淡く光り、吸い込まれていた力が一本の筋になって右側へ流れ始めた。スライムたちがその流れに引かれ、広間の中央へ寄せられていく。 今だ。男の声が飛ぶ。僕は震える息をのみ、反対側の溝へ乾いた砂を一気に落とした。砂は光を散らしながら流れを遮り、集まりすぎた魔力をほどくように広がる。半透明の体がぴたりと揺れ、輪郭を崩した。その隙を逃さず、男の投げた小瓶が弧を描く。瓶が砕けると、白い靄が立ちのぼり、群れの動きが一斉に鈍った。 僕は次の一手を迷わなかった。壁際のひびへ掌を当て、刻印の向きを少しだけずらす。ほんのわずかな修正なのに、遺跡の底でうずく流れが息をつく気配がした。危険な道筋が、ようやく別の出口を得たのだ。 だが、その瞬間、背後で乾いた拍手が響いた。振り向くと、通路の闇に一人の男が立っていた。白衣に似た長い外套、薬品の匂い、手元に抱えた記録板。見覚えのない顔なのに、視線だけがやけに落ち着いている。 よくここまで整えた。感心したよ。 声は静かだった。スライムの群れを作ったのは彼だと、理解するまでに時間はいらない。僕が息を呑む間に、男は記録板を閉じた。目的は増やすことじゃない。人の判断をどこまで乱せるかを見ることだった。森でも町でも、必要なだけ揺らせば、皆は自分で道を外す。 男はそう言い、遺跡の奥へ視線を送った。だが、もう遅い。流れは変えた。僕の声は思ったよりもはっきりしていた。遅かったのは、そっちだ。 その言葉が終わるより早く、広間の刻印が一斉に明滅した。集められすぎた魔力が逆流し、群れを包んでいた粘つく圧がほどけていく。スライムたちは形を保てず、雨上がりの霧みたいに薄れていった。 男は一歩退き、初めて表情を崩した。僕の中にも、別のものが残っている。次は逃がさない。 脅しのようなその声を、僕はもう真正面から受け取らなかった。怖い。だが、怖いからこそ自分で選ぶ。誰かに流されるままでは、また同じ場所に戻ってしまう。 男が剣を抜くより早く、僕は崩れた装置の最後の歯車を蹴り落とした。遺跡の奥で鈍い音が鳴り、空気のざわめきが止む。広間に残ったのは、湿った石の匂いと、静かになった自分の鼓動だけだった。

8章 / 全10

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