エラベノベル堂

潜入捜査官、罠を破る

全年齢

小説ID: cmnkiyux8000001s2ptmisbom

6章 / 全10

葉月は控え室の扉の陰で、最後の一言を聞き逃さなかった。通す。書類は直す。その軽い響きが、現場全体の空気を凍らせるほどの意味を持つことを、彼女は知っていた。実物と記録をずらせば、何が動いたかは見えなくなる。だからこそ、どこかで必ず綻びが生まれる。 彼女は一歩引こうとして、背後の気配に気づいた。遅かった。振り向いた瞬間、無線機の短い音が耳元で裂け、脇から伸びた腕が通路を塞ぐ。葉月の胸元を照らす小さな灯りが、さっきまでの作業着の雑踏とは違う冷たさで揺れた。 「その顔、見覚えがあるな」 低い声だった。ひとりではない。左右、背後、前方。気づけば彼女は、箱の壁と人の壁に挟まれていた。護衛の一人が名札へ視線を落とし、細めた目で何かを確かめる。別の男が、葉月の指先に残る記録用の薄い鉛筆を見つけて、笑いを消した。 「荷を運ぶ手つきじゃない」 葉月は肩の力を抜いたまま、ゆっくり息を吐いた。ここで慌てれば終わる。だが、静かすぎても終わる。彼女は少しだけ首を傾け、口元に曖昧な笑みを浮かべる。 「今日が初めてだから、慣れていないだけです」 言葉は穏やかだった。だが、囲む男たちの視線はもう揺れない。上役らしい男が半歩前へ出て、葉月の顔をじっと見た。その目は、化粧の下にある輪郭を剥がすように冷たい。 「初めてにしては、見すぎだ。数も、通路も、帳面もな」 葉月の喉がわずかに鳴る。否定はできる。だが否定だけでは足りない。彼女は視線を落とし、床に転がった木片へ目をやった。割れた箱の影に、薄い紙片が挟まっている。搬入の際に落ちた、控えの複写だ。今ならまだ、足で隠れる位置にある。 その瞬間、外から金属音が響いた。短く、鋭く、続けて複数。誰かが焦って振り返り、別の男が耳の通信機を押さえる。葉月はその一拍を逃さず、身体を沈めた。男たちが外の異変に意識を取られた隙に、彼女は紙片へ手を伸ばす。 上役の声が飛ぶ。 「止めろ」 だが、もう遅い。葉月は紙を掴むと同時に、意図的に棚へ肩をぶつけた。積まれた箱が傾き、軽い崩れ音が連鎖する。視線が散った。彼女はその乱れの中心を抜け、控え室へつながる狭い脇道へ身を滑らせる。 後ろから怒号が追ってくる。逃げ場はない。そう思えた先で、耳に仕込んだ通信機がかすかに震えた。待機していた仲間からの、たった一度の合図だった。葉月は答える代わりに、拾った紙片を握りしめる。追う者の足音と、外で高まる騒ぎが重なる。追い込まれたはずの場所に、逆に出口の輪郭が浮かび上がった。彼女は暗がりの向こうを見据え、静かに次の一手へ身を投じた。

6章 / 全10

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