葉月は箱の影を抜け、控え室へ続く細い通路に身を滑らせた。背後では怒声がいくつも重なり、追手の足音が倉庫の床を鋭く叩く。逃げ道はすでに塞がれていたが、彼女はあえて走らなかった。急げば、かえって包囲の輪が締まる。今必要なのは、相手の焦りを増やし、自分の呼吸を整えることだった。 振り返ると、上役らしき男が数人を押し分けて迫ってくる。葉月は肩で息をしながらも、口元だけは崩さずに言った。 「そんなに慌てるなんて、こちらの顔に心当たりでもあるんですか」 男たちの歩みがわずかに鈍る。問い返されたくない者ほど、軽口に反応する。葉月はその性質を知っていた。 「私はただ、荷の流れが気になっただけです。ここまで厳重なら、よほど大事な品なんでしょう」 最前列の男が鼻で笑った。 「よく回る口だ」 「口だけなら、現場で覚えたものです」 葉月は怖気づいたふりをせず、視線を上げた。恐れを見せれば獣は踏み込んでくる。だが、落ち着きすぎても不審が増す。彼女はその中間を選び、相手の自尊心をくすぐるように続けた。 「あなたたちほどの人間が、こんな末端で神経を尖らせる理由は一つでしょう。上の指示が、かなり慌ただしい」 言葉は静かだったが、倉庫の空気がまた変わった。誰もが一瞬だけ互いの顔を見た。図星を踏まれると、人はまず周囲を疑う。葉月はその隙を待っていた。机の上に置かれた伝票束、その横に立てかけられた印章箱、控え室の壁際に積まれた空の搬送ケース。すべてが近くに見えて、ひどく遠い。けれど、彼女の袖口には事前に縫い込んでおいた薄い端末がある。指先で留め具を押し込めば、外部へ短い警報が送れる仕掛けだ。 荷を回すふりをして前へ出る男に合わせ、葉月は一歩だけ横へずれた。その瞬間、棚の角が彼女の腕をかすめ、布地が引きつれる。だが痛みより早く、隠していた端末の接点が指先に触れた。目を伏せたまま、彼女は袖の内側で小さく押し込む。振動は一度だけ。これで十分だった。 外のどこかで、救援を告げる合図が走る。次の瞬間、倉庫の奥から別の怒号が上がった。合図を受けた仲間が、外周の監視を揺さぶったのだ。追手たちの視線が一斉に逸れる。葉月はそのわずかな乱れを見逃さない。 「ほら、あなたたちのほうが先に崩れた」 薄く笑った彼女の声に、男の一人が苛立ちをあらわにした。その瞬間、上役が低く命じる。 「動くな。囲め」 だが、もう遅い。葉月が仕込んだ警報は、倉庫の内外をつなぐ一本の糸になっていた。混乱は追う側のものではなくなりつつある。彼女は床に落ちた伝票を足で引き寄せ、そこに印字された識別番号を一瞥した。逃げ場を断たれたはずの状況が、逆に証拠の位置を示している。葉月は息を整え、相手の油断が完全に恐怖へ変わる、その瞬間へ静かに歩み寄った。
潜入捜査官、罠を破る
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