昼を過ぎても、雨はやむ気配がなかった。店先のガラス戸には細い雫が流れ、外の通りはぼんやりと霞んでいる。いつもなら学校帰りの子どもや、仕事の合間に立ち寄る常連が顔を出す時間なのに、今日は足音がまばらだった。 「静かだね」 トマトが小さく揺れる。赤い肌に店内の灯りが映って、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。 大根はまっすぐ前を向いたまま言う。 「雨の日は、仕方がない。焦っても客は増えない」 「でも、少ないのはやっぱり落ち着かないよ」 じゃがいもが箱の端でころりと向きを変える。いつもののんびりした声にも、今日はかすかな不安が混じっていた。 そのとき、店の奥から店長の慌てた声がした。どうやら追加の仕入れを並べ直そうとして、札の束を落としてしまったらしい。床に散った紙片を拾い上げる途中、箱の位置まで少しずつずれていく。気づけば、通路の奥に置いたはずの箱が前に出て、前列の野菜たちを半分隠していた。 「見えない」 トマトが思わず声を上げる。 「待ってください。そのままでは、私が埋もれてしまう」 大根も珍しく声を荒げた。 店長が振り返った瞬間、さらに入口の鈴が鳴る。濡れた傘をたたみながら入ってきたのは、顔なじみの女性客だった。その後ろで、小さな影がひとつ、するりと店内へ滑り込む。 「お母さん、こっち?」 か細い声に、店内の空気が一変した。常連客の子どもだった。いつもは母親の手を離れない年頃なのに、今日は雨に気を取られて、ほんの少しだけ先へ出てしまったらしい。だが通路は箱で狭くなり、入口から奥が見通せない。子どもは立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。 トマトがぴんと背を張る。 「大変だよ、迷子だ」 大根が即座に答えた。 「騒ぐな。まず道を作る」 じゃがいもがころんと前へ転がり、低い声で言う。 「こっちだよ。まっすぐ進むと、レジがある。そこを左に曲がれば、お菓子の棚。その先に、温かいスープの材料が並んでる」 「なんでそんなに詳しいの」 トマトが目を丸くした。 「いつも見てるからね」 じゃがいもは平然としている。 大根は通路の真ん中に自分の白い身を少し寄せて、まるで目印の柱のように立った。 「私を見ながら歩けばいい。ぶつかる心配はない」 トマトは前の箱の上に乗り出し、赤い色を灯台みたいに揺らす。 「次はぼく。ここがレジの近く。そこからなら、ほら、店長の声が聞こえるよ」 子どもは不安そうにしていたが、野菜たちのにぎやかな案内に少しずつ笑顔を取り戻した。店長も慌てて通路の箱をどかし、いつもの広さを取り戻していく。 「すみません、少し狭くなってましたね。おいで、ここだよ」 女性客が子どもの名を呼ぶと、その子はぱっと顔を上げて駆け寄った。母親の手をつかんだ瞬間、店内にほっとした空気が広がる。 女性客は野菜の並びを見て、やわらかく微笑んだ。 「この店、迷子も見つけてくれるんですね」 店長が少し照れたように笑う。 「ええ、野菜たちがね」 その言葉に、大根もトマトもじゃがいもも、なぜか胸の奥があたたかくなった。選ばれるために並ぶだけではない。ここは、迷った誰かが立ち止まり、声を聞き、安心して帰っていく場所でもある。野菜が売られる場所というより、人と人の輪がふっとほどける場所なのだ。 雨音はまだ続いていたが、店先には明るい温度が残っていた。子どもは帰り際、トマトに手を振り、大根に会釈し、じゃがいもに向かって 「ありがと」 と言った。 じゃがいもはころりと一回転して、嬉しそうに答える。 「どういたしまして。また迷ったら、ここにおいで」 八百屋の奥で、店長が新しい札を立てる。 ただの売り場ではない。 その短い言葉が、雨の日の店を静かに支えていた。
八百屋の野菜たち
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