暗い通路の端で、ひなたは端末を握りしめたまま息を殺していた。外との線は切れたまま、画面は無情に黒い。だが工場の内部では、別のざわめきが生まれていた。幹部たちの間に流した曖昧な偽情報が、思った以上に効いている。誰が裏切ったのか、誰が証拠を抜いたのか。疑いは疑いを呼び、静かだった現場が少しずつ軋み始めていた。 その変化を、ひなたは壁越しに感じ取った。人の苛立ちや不安は、湿った空気のように伝わってくる。能力を薄く広げれば、誰が焦り、誰が沈黙を選んでいるかも見えてくる。作戦は当たっている。そう思った瞬間、奥の会議室から低い怒鳴り声が響いた。 「こんな話、誰が流した」 「知らねえよ。そっちが抜いたんだろ」 言葉の鋭さに、ひなたは身を引いた。内部抗争は、彼女を守る盾になるはずだった。だが、疑心暗鬼は予想以上に膨らみ、火種は思わぬところへ飛ぶ。通路の向こう、会議室の扉が開き、見慣れない男たちが早足で行き来し始めた。作業着ではない。仕立てのいい服の上から、現場の空気だけを借りてきたような、浮いた存在感だった。 ひなたは目を細める。最重要人物だ。 工場の奥へ、ゆっくりと進む足音が近づいてくる。しかも、その男には見覚えがなかったはずなのに、視線だけは妙にこちらをなぞるようだった。ひなたが隠れている場所の気配を、最初から知っているかのように。 やがて、その男は会議室の前で立ち止まった。周囲の幹部たちが一斉に口を閉ざす。空気が変わる。ひなたは壁の陰から、その横顔を見た。冷ややかで、余裕がある。現場を切り回す者ではない。もっと上から糸を引く者の目だった。 「潜入は順調か」 小さな声だったのに、ひなたの背筋が強張った。男は誰に向けて言ったのか、確かめるように一度だけ視線を巡らせる。そして、まっすぐこちらへ向け直した。 「桜羽原ひなた」 名を呼ばれた瞬間、世界の輪郭が一段薄くなる。ひなたは反射的に身構えた。知っているはずのない名前。呼ばれるはずのない名前。男は薄く笑い、ポケットから古い紙束の端を見せた。黄ばんだ記録用紙。そこには、彼女の能力に関する実験記録らしい文字列が並んでいた。 「まさか、ここまでそのまま来るとは思わなかった。ずっと監視していた甲斐がある」 ひなたは喉の奥が冷えるのを感じた。能力の出自。誰にも渡していないはずの過去。任務を受けた偶然さえ、ひどく軽く見える。自分は選ばれて潜ったのではない。最初から見張られ、測られ、ここへ置かれていたのだ。 男は紙束を指先で揺らし、幹部たちのざわめきを背に言った。 「君は、ただの潜入捜査官じゃない」 ひなたは答えなかった。答えられなかった。胸の内で、これまで積み上げた手順が静かに崩れていく。偽情報も、内部抗争も、通信遮断の向こう側で笑っている誰かに、最初から読まれていたのかもしれない。 会議室の灯りが、ひとつ強くまたたいた。ひなたは壁に背を預けたまま、次に動くべき方向を探した。
白衣の潜入捜査官
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