暗闇の中で、ひなたは壊れかけた制御盤に背を預けていた。耳鳴りの向こうから、遠く機械がうなる音がする。工場はまだ生きている。いや、切り捨てられたからこそ、最後の痙攣みたいに暴れているのかもしれない。 そのとき、非常灯が一瞬だけ揺れた。続いて、通路の奥から足音が一つ、迷いながら近づいてくる。ひなたは身を低くして構えたが、現れたのは敵ではなかった。昼間から監視役として動いていた男だった。冷たく突き放す視線の裏に、妙な焦りがある。 「まだ生きていたか」 「あなたが、何をしたんです」 男は答えず、ひなたの手首をつかんだ。乱暴なのに、逃がすための力だった。彼は壁際の点検扉へ顎をしゃくる。 「いいから来い。今なら抜けられる」 ひなたはその言葉に、わずかな違和感を覚えた。敵のはずの動きが、あまりにも工場の外へ向かっている。だが次の瞬間、男の肩越しに見えた廊下の先で、封鎖灯の並びが不自然に変わっていた。ひと続きの警報が、特定の区画だけを避けている。 これは逃走路ではない。誰かを外へ流すための導線だ。 ひなたは男の腕を振りほどかず、そのまま視線だけで流れを追った。もし黒幕が脱出を急いでいるなら、この経路は最後の抜け道になる。逆に言えば、ここを塞げば逃げ場はなくなる。 彼女は一歩だけ遅らせ、能力を薄く広げた。焦りと苛立ちが、通路の先にいる者たちへゆっくり染み込む。警備員たちの判断が鈍り、扉の開閉が半拍ずれる。そのわずかな隙に、ひなたは点検扉のレバーを引き下ろした。 金属音が鋭く響く。扉は半分だけ閉まり、先へ抜けようとしていた影を足止めした。奥で誰かが舌打ちする気配がする。ひなたはもう一度だけ工場全体の流れを見た。封鎖の回線が、黒幕の退路と同じ網目で組まれている。ならば逆に、区画ごとの隔壁を落とせばいい。 彼女は男の指示を無視して操作盤へ手を伸ばし、非常隔壁の解放順を切り替えた。逃がすための道を、閉じ込めるための檻へ変える。次々に降りる重い扉が、工場の内外を切り分けていく。 「おまえ、何を——」 「足止めです」 ひなたは短く言った。感情の波をもう一段深く押し込み、焦る者たちの判断を遅らせる。廊下の向こうで、誰かが逃げる方向を見失ったように立ち止まるのがわかった。脱出経路は封じられ、工場ごとの封鎖が完成する。 その混乱の中で、ひなたはある声を聞いた。命令するでも怒鳴るでもない、低く抑えた声だ。現場の誰よりも落ち着いていて、誰よりも撤退の手順を知っている。取引先を名乗る人物の声に似ていたが、立場はもっと内部にいる。 監視役の男も、同じ方角を見たまま顔色を変えていた。 「……あいつか」 ひなたは息を止める。黒幕は目の前の敵ではない。もっと別の席で、この工場の切り捨て方まで見計らっていた者がいる。彼女が掴んだのは、逃げようとする影と、その影を動かす手の輪郭だった。 警報が再び鳴り、封鎖された区画の先で足音が散る。ひなたは扉の向こうを見据えたまま、次に破るべき仮面の形を心に刻んだ。
白衣の潜入捜査官
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