エラベノベル堂

吹き出す本音、未来を変える

全年齢

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5章 / 全10

夕方の安宿は、壁紙の継ぎ目まで古びて見えた。俺はベッドの端に腰を下ろし、木箱からこけしを取り出す。義理の妹は窓際に立ったまま、電動式のマッサージ機を手に取った。どちらも、何の変哲もない土産物にしか見えない。けれど、同時に机の上へ置いた瞬間、空気がぴんと張った。 「今、鳴っただろ」 そう思っただけで、白い吹き出しが浮かぶ。妹がこちらを見た。俺は慌てて口を押さえたが、遅かった。 「鳴ってない。けど、反応はした」 彼女はこけしの底を光にかざし、細い彫り込みを指でなぞる。すると、木目の奥に埋もれていた線が、じわりと浮かび上がった。こけしの顔と同じ方向を向くように、渦と直線が重なっていく。妹は息を呑む。 「これ、地図だ」 「地図?」 「座標よ。たぶん、未来の座標」 俺はマッサージ機を持ち上げた。電源は入っていないはずなのに、内部で小さな振動が続いている。試しにこけしの底へ近づけると、二つが触れ合う直前で、頭の中に白い面が開いた。吹き出しではない。もっと広い、紙をめくるような感覚だった。 見知らぬ駅。半壊した看板。川沿いの高架橋。そこに赤い点が三つ、順に灯る。俺は思わず身を引いた。 「分かった。俺たちが追ってるんじゃない。向こうは、これを回収したいんだ」 妹の声は低かった。 「あなたが狙われる理由も、そこにある」 彼女は言葉を選ぶみたいに少し間を置き、それから続けた。 「あんたは偶然選ばれたんじゃない。書く人だから。見えたものを形にしてしまう人だから、改変の起点として都合がいい」 胸の奥が冷えた。俺の原稿は、ただの趣味じゃなかったのか。誰かが物語を現実へ引きずり出すなら、俺の癖も、弱さも、全部使われる。守られているつもりで、実際は檻の中にいたのかもしれない。 「じゃあ、俺は逃げるしかないのか」 「逃げるだけなら、ずっと前に終わってる」 妹は俺の前へ座り、こけしをそっと両手で包んだ。 「あなたは、見つけたものを描ける。なら、座標も描ける。相手に奪われる前に、こっちから先に使う」 その言葉で、頭の中の吹き出しが少しだけ静かになった。俺は自分の手を見た。震えている。けれど、怖がっているだけの手じゃない。何かをつかみ返したがっている手だ。 「守られるだけは、もう嫌だ」 声に出すと、吹き出しが大きく膨らんだ。そこには、はっきりと一文が出ていた。 「自分で選ぶ」 俺はうなずいた。たとえ狙われる理由が、創作と現実の境目にあるのだとしても、そこに立つのは俺だ。妹は短く息を吐き、少しだけ笑った。 「やっと、そう言った」 こけしの底の線はなお淡く光り、マッサージ機は低く震え続けている。俺たちは赤い点の並びを睨みながら、次に向かう場所を地図へ落とし込んだ。外では、夜の街のざわめきが遠く流れていく。だがもう、ただ隠れているだけでは終わらない。俺は木箱を閉じ、ペンケースを取り出した。 次に書くのは、奪われるための物語じゃない。俺自身が辿り着くための、道しるべだ。

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