先輩に連れられて入った裏通りの小さな室内は、思ったよりも静かだった。窓には厚い布がかけられ、外の光はほとんど入らない。中央に置かれた鏡の前で、先輩は箱を開けた。中に入っていたのは、黒を基調にした、細い紐の多い衣装だった。派手に見えるのに、どこか舞台衣装めいた誇張がある。 「これを着て、向こうへ行ってもらう」 「えっと、冗談ではなく」 「冗談なら、わざわざ君を呼ばない」 私は箱の中を見て息を止めた。まるで強さや弱さを同時に隠すための鎧みたいで、まともに着こなせる自信がない。先輩は私の戸惑いを見ても、少しも笑わなかった。 「敵地では、正体を隠すより、立場を変えるほうが早い。今日は君を、別の客として通す」 「別の客?」 「そう。誰もが本当の顔を見せるわけじゃない場所だからね」 着替え終えると、鏡の中の私は見慣れない輪郭をしていた。服のせいか、姿勢まで変わった気がする。先輩が髪を整え、眼差しだけで頷く。 「似合ってる。けれど、似合いすぎるのも問題だ」 「どういう意味ですか」 「君は見た目で判断されやすい。だからこそ、言葉を選ぶんだよ」 その言葉通り、潜入先の倉庫は表向きは会員制の社交場だった。入口で出迎えた男は、私を見るなり一瞬だけ眉を上げた。私は先輩に言われた通り、少しだけ顎を上げる。 「案内を」 それだけで、男の態度が変わった。軽く見られるかと思えば、逆だった。彼は私を値踏みするように見て、それから丁寧に扉を開ける。 奥へ進むと、別の男がこちらへ歩いてきた。私は視線を落としすぎず、上げすぎず、曖昧な笑みを返す。すると相手は露骨に警戒を解いた。 「初めて見る顔だな」 「そういう場所ですから」 「気に入った。少し話そう」 先輩が小さく肩をすくめるのが見えた。人と人の距離が近づくたび、空気が目に見えない糸で結び直されていく。私はその糸のどこを触ればいいのか分からないまま、笑顔だけを保った。 その時、別の扉が開いて、ひとりの女が現れた。艶のある声で私の名を呼び、まるで昔から知っているみたいに近づいてくる。 「あなたが噂の人?」 私は一瞬迷った。否定すればいいのか、受け流せばいいのか。だが先輩は、私の返事を待つように視線を送る。 私はゆっくり息を吸い、相手の目を見た。 「噂なら、好きに育ててください」 女は楽しそうに笑い、男たちはなぜかそれで静かになった。誰にどう接するかで、場の色が変わる。たった一言で、味方にも敵にも傾く。私はそこで初めて理解した。ここでは、選ばれる側でいる限り、ずっと試され続けるのだと。 先輩が私の耳元で囁く。 「いい反応だ。君はもう、ただの案内役じゃない」 その声が妙に甘くて、私は危うく振り向きそうになる。けれど次の瞬間、奥の席から届いた視線に気づいた。そこにいたのは、先ほどの男でも女でもない、誰よりも静かな顔をした人物だった。 その人は私を見て、なぜか微かに口角を上げた。 まるで、最初から私がここへ来ると知っていたように。
激辛カレーと予知の先輩
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