エラベノベル堂

激辛カレーと予知の先輩

全年齢

小説ID: cmnscu3az000o01qaapfjrw17

5章 / 全10

「顔、こわばってる」 先輩はそう言って、私のグラスに水を足した。指先はやけに落ち着いていて、さっきまで倉庫の奥で人を振り分けていた同じ手とは思えない。 「緊張してます」 「うん、知ってる。君は隠すのが下手だから」 それは優しさにも聞こえたし、試している声にも聞こえた。私は視線を落としたまま、黒い衣装の裾を整える。舞台の小道具みたいだと思っていたそれは、今では自分の輪郭を曖昧にする鎧のようだった。 「今日はもう帰っていいんですか」 「帰ってもいいし、残ってもいい」 先輩は簡単に言う。選択肢を渡されたのに、なぜか自由ではない。私は彼の横顔を見た。近くで見ると、穏やかな笑みの奥に、何かを隠すための薄い膜がある。 「先輩は、私に何をさせたいんですか」 「君が誰かに選ばれるのを待つだけじゃ、危ういと思ったから」 「危うい?」 「未来には、分かれ道がある。君はもう片方へ行ける人だ」 言い方が優しいぶん、胸に刺さる。私は自分でも驚くほど、静かに返した。 「それは、私を助けてるんですか。それとも、使いたいだけですか」 先輩は笑わなかった。代わりに、しばらく黙って私を見た。その沈黙が、答えより多くを語っている気がした。 「両方だよ」 「……正直ですね」 「正直でいられる相手は、少ないから」 その瞬間、奥の静かな人物が立ち上がった。さっきから視線だけで場を支配していたその人は、私たちの会話を聞いていたらしい。 「彼女に、まだ全部言っていないのか」 声は低く、乾いていた。先輩は肩をすくめる。 「全部言えば、逃げるだろう」 「逃げない性格だ」 「だからこそ、迷う」 私は二人を見比べた。どちらも私を知っているようで、どちらも私の知らないところで動いている。 「私、選ぶのは得意じゃないです」 そう言うと、先輩が少しだけ目を細めた。 「知ってる。でも君は、選ばされるときほど強い」 「褒めてます?」 「たぶん」 その曖昧な返事に、なぜか胸の奥が熱くなった。好意なのか、駒としての評価なのか、まだ分からない。分からないまま、私は先輩の手元を見た。紙ナプキンの端に、激辛カレーの店名と、今日着ていた衣装の記号が重ねて書かれている。どちらも一見ただの目印だが、線で結ぶと妙な形になる。 「これ、何ですか」 私が問うと、奥の人物が先に答えた。 「入口だよ。君が思っているより、ずっと深い」 先輩はその言葉を否定しなかった。 「君がここまで来たのは偶然じゃない。けれど、終点でもない」 私は紙ナプキンを取り上げ、記号を見つめた。裏社会の駆け引きも、誰かの甘い視線も、全部が私を揺らすための仕掛けなのかもしれない。それでも、不思議と怖さだけではなかった。先輩の好意が本物かどうか分からない。けれど、分からないまま差し出される手を、私はもう見逃せない。 「今日は、帰りません」 自分で言ってから、少しだけ息が震えた。先輩は驚いたふうもなく、静かに笑う。 「そう言うと思った」 その一言に、私はますます心を乱された。優しさの形をした罠なのか、それとも本当に未来を変えるための導きなのか。答えはまだ見えない。だが少なくとも、私はもう誰かに選ばれるだけの側には戻れない。 窓の外で、夜の看板が赤く滲んでいた。激辛カレーの店の色に、どこか似ている。

5章 / 全10

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