店の奥にある個室で、誰も口を開かない時間が長く続いた。時計の針だけが、妙に大きく耳へ残る。先輩は窓の外を見たまま、指先でグラスの縁をなぞっている。向かいの静かな人物は、こちらを一度も逸らさない。私はその視線を受けながら、ようやく気づいた。彼らは会話をしていないのに、もう何かを決めている。 「来ると思っていた」 低い声が落ちた。静かな人物のものだった。私は反射的に先輩を見る。先輩は笑わない。 「見通しが良すぎるのも困るね」 「見通しているんじゃない。読んでいるだけだ」 その言い方に、室内の空気がぴんと張った。心を読む。冗談みたいな言葉なのに、先ほどから相手の返しが妙に先回りしている理由が、急に筋道を持ってしまう。 私が何かを言う前に、相手はテーブル上の紙ナプキンを指した。そこには、先輩がさっき書き残した記号のほかに、私が触れてもいないはずの線が増えていた。まるで、こちらの考えを見抜いて書き足したみたいだった。 「正面から来るのはやめたほうがいい。君たちの作戦は、全部こちらに見えている」 先輩が小さく息を吐く。 「やっぱりね」 「やっぱり、じゃないでしょう」 私は思わず声を上げた。 「こっちは何度も動いたのに」 「動いたから読まれた。君はまだ、相手の前で考えすぎる」 その瞬間、先輩と私の視線がぶつかった。あまりにも自然に言うものだから、私は胸の奥がざわつく。先輩の予知は、今の場面を避けるはずだったのではないか。けれど現実は違う。予想は外れ、敵は先に立ち、味方同士の足並みさえ揺れていた。 「では、どうする」 静かな人物が問う。 先輩は私を見た。いや、私の表情の変化を待っていた。 「考える前に動かない」 「それでは勝てない」 「勝つ必要があるならね」 私はそこで、ふっと息を整えた。相手が次の言葉を読むなら、こちらは言葉を短くすればいい。沈黙を挟めばいい。会話の間に、相手の予測が入り込む隙をずらせる。私はゆっくりと顔を上げた。 「じゃあ、私が話します」 「何を」 「何でもないことを」 先輩が目を細めた。止める気配はない。私は、今いる場所から一番遠い話を選んだ。朝のコンビニで見かけた値引きパンのこと。森で飲んだぬるい水のこと。つまらない記憶を、わざと途切れ途切れに並べる。相手は最初、訝しげに聞いていたが、途中で眉をひそめた。読めない。先が見えない。そういう顔だ。 私は続けた。言葉の終わりを曖昧にし、沈黙を一拍長く置き、相手が次に来るはずの反応を外していく。たったそれだけで、空気が少しずつこちらへ傾き始めた。読み合いではなく、拍子外れの会話。先に答えを置く相手には、答えのない隙間が効く。 「そうか」 静かな人物が、ついに目を細めた。 「君は考えを隠すんじゃない。空白にするのか」 私は首を傾げた。 「空白って、そんなに便利ですか」 「便利だよ。読めないからな」 その言葉に、先輩がようやく声を漏らして笑った。 「いいね。君らしい」 だが次の瞬間、先輩の笑みが消えた。テーブルの下で何かが振動したのだ。私が視線を落とすと、店の外に停まった黒い車のライトが、窓の隙間から細く差し込んでいた。先輩の指が一度だけ止まる。 「しまった。あれは囮だ」 「囮?」 「激辛カレーの成功を、わざと見せたんだ。ここへ誘うための入口だった」 私は息をのんだ。私たちがうまくやれたと思っていた小さな成果は、勝利ではなかった。敵が敷いた見えない道の、ただの最初の印にすぎない。 静かな人物が立ち上がる。 「ここから先は、もう会話では済まない」 私はその言葉を聞きながら、ようやく本当の転がり始めを知った。先輩の予知は外れたのではない。外れたように見える場所まで、最初から連れて来られていたのだ。 それでも、私は椅子を引かなかった。相手が心を読むなら、私は読む対象にならない。沈黙を選び、間を選び、答えないことで道を変える。激辛の匂いが、遠くのどこかでまだかすかに残っている。あれは合図ではなかったのかもしれない。もっと悪いものを隠すための、甘い偽装だったのだ。 先輩が私の肩に手を置いた。 「次は、君が先に決めて」 その声はやけに静かで、私は初めて、選ばされる側ではなくなる気配を感じた。
激辛カレーと予知の先輩
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