テーブルの上に置かれた小さな容器を見た瞬間、胃の奥がひやりとした。激辛カレー。あの夜、ただの合図だと思っていた匂いが、急に別の意味を持って立ち上がる。私は容器の蓋を見つめたまま、息を止めた。 「これ、まだ残っていたんですか」 男は答えず、先輩のほうへ視線を流した。先輩は平然とグラスを傾けている。けれど、その横顔がどこか硬い。私は知ってしまった。あのカレーは成功の証ではなかった。最初から、何かを開かせるための鍵だったのだ。 「君が最初に動いたとき、向こうは確認した」 先輩が静かに言った。 「辛さに強いという印象も、迷ったときに立ち止まる癖も。全部、観察されていた」 「観察、されていた……?」 「君が自分で掴んだと思っていた小さな勝ちも、向こうにとっては予定通りだった。だからここまで来られた」 私は言葉を失った。あの商店街で、喫茶店で、倉庫で、私が少しずつ慣れていった感覚。それが全部、敵の手のひらの上だったなんて。胸の奥に残っていた達成感が、音もなく崩れていく。 静かな人物が、容器のラベルを指先でなぞった。 「選ばせたつもりで、選ばせていない。そういう仕掛けだ」 「じゃあ、私がここにいることも?」 「半分は君の意志だ」 その返事が、かえって残酷だった。半分だけでも自分の意志なら、もう言い逃れはできない。私は自分の手を見下ろした。激辛を運んだときの癖が、今も指先に残っている気がする。あれは偶然じゃない。誰かに誘導され、私は誘導されたことに気づかないまま、何度も扉を開けていた。 「最初から、私をここへ?」 先輩は、ようやく私を見た。 「ここだけじゃない。もっと前からだ」 その目に、いつもの甘さがない。代わりに、確かめるような痛みがあった。 「君は森でひとりだった。そう思っていたでしょう。でも、あの日からずっと、君の行動は外から見える場所にあった」 「森も?」 「森も」 喉が詰まった。ひとりで過ごしたはずの休日さえ、もう私だけの記憶ではない。背中を撫でた風、止まった鳥の声、見知らぬ靴跡。全部が、偶然ではなく導線だったのだとしたら。私は誰よりも先に、自分の孤独まで利用されていたことになる。 「どうしてそんなことを」 男は低く笑った。 「恋愛ゲームの主人公は、選ばれるために用意される。だが本当に必要なのは、選ばせることだ。君はその中心に立てる」 私は顔を上げた。恋愛ゲーム。冗談みたいな言葉なのに、今は笑えない。誰かに求められるたび、私は少しずつ動かされてきた。だが、それは終わりではない。誰かに決められるための役割を押しつけられていたなら、今ここで別の答えを返せばいい。 「私は、選ばれるだけの人形じゃない」 先輩の目がわずかに揺れた。 「知ってる」 その一言だけで、胸の奥がざわめく。私はようやく理解した。先輩の予知は、未来を当てるためだけのものじゃない。私が自分で道を選ぶ瞬間を、見届けるためのものだったのだ。 窓の外で、夜の赤い看板が滲んでいる。激辛カレーの店名が、まるで警告のように揺れていた。だがもう怖くない。あれは罠の入口であり、同時に真実へ向かう標識でもあった。 私は容器を持ち上げ、静かに蓋を閉じた。 「もう、誘導されません」 先輩は少しだけ笑った。さびしそうで、それでも誇らしげな笑みだった。 「それでいい」 その瞬間、私は知る。私を導いていたのは敵だけじゃない。信じるべき相手も、疑うべき相手も、最初から同じ場所にいたのだと。激辛カレーは勝敗を分ける札ではなかった。見えない糸を炙り出すための炎だった。私はその熱の中で、ようやく自分の足で立ち直る。
激辛カレーと予知の先輩
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