エラベノベル堂

激辛カレーと予知の先輩

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小説ID: cmnscu3az000o01qaapfjrw17

9章 / 全10

翌日の夜、最終決戦の前夜だと誰もが口にしながら、誰も眠る気配はなかった。私は倉庫街の上階にある狭い応接室で、裏社会の頂点に立ったはずの席に座っていた。革張りの椅子はやけに重く、背もたれに寄りかかるたび、自分が誰かの用意した像に押し込められている気がした。 「座り心地はどう?」 先輩が戸口にもたれ、いつもの柔らかな声で言う。だが今夜の声は、甘さよりも疲れのほうが濃かった。 「最悪です。これ、私の席じゃないでしょう」 「半分はそう。半分は、君の席になるはずだった」 「はずだった、って何ですか」 先輩は近づくと、机の上に鍵束を置いた。激辛カレーの店名が刻まれた小さなタグが揺れる。私はそれを見て、妙に静かな怒りが湧いた。 「全部、仕掛けだったんですね。私がトップになったみたいに見せたのも」 「見せたんじゃない。そう見えるように整えた」 「誰が」 「私と、敵と、それから君自身」 私は笑えなかった。敵の心を読む力を逆手に取るため、私は囮の頂点に据えられていた。誰が命令しても、私が頷けば組織は動く。そんな都合のいい存在として。 「私を人形にしたかったんですか」 「違う」 先輩は初めて声を荒げた。 「君が自分で選べるように、選ばれた場所を作っただけだ」 その言葉は、謝罪にも弁明にも聞こえた。私は立ち上がり、彼をまっすぐ見た。 「だったら最初から言ってください。優しい顔で未来を見せて、甘い言葉で近づいて、私は何度も迷った。先輩の予知があるせいで、私の直感まで疑うことになったんです」 「君の直感は間違っていなかった」 「じゃあ、どうして食い違ったんです」 「君が強くなる未来を、私が見たくなかったからだ」 沈黙が落ちた。私は息を呑んだ。彼は視線を逸らさない。そこにあったのは支配ではなく、恐れていたものを差し出すような顔だった。 「敵の目的は、組織の支配じゃない。人を読めるからこそ、誰かに選ばれる人生を固定することだった。君はその中心に置くのに、最適だった」 「恋愛ゲームの主人公だから?」 「そうだ」 先輩は目を伏せた。 「誰かに選ばれることで進む物語なら、最後まで選ばれるはずだった。けれど君は違った。だから敵も私も、予定を壊された」 私は笑った。乾いた、でも少しだけ救われる笑いだった。 「それで、先輩は私を使ってたんですね」 「使っていた」 「最低です」 「知ってる」 言い切ったあと、彼はほんの少しだけ肩を落とした。 「でも、嘘はなかった。君を必要だと思ったのも、離したくなかったのも、本当だ」 その告白は、あまりに不器用で、あまりに遅かった。私は窓の外を見る。遠くで赤い看板が滲み、激辛カレーの店の灯りが、夜の霧に溶けていた。 「ボンテージ風の衣装も?」 私が問うと、先輩はわずかに目を見開いた。 「変装のためだよ。視線を散らして、相手の本心を暴くための」 「全部、見せかけ」 「見せかけの中に、本物を隠した」 私は鍵束を手に取った。重い。けれど、もう重さに飲まれない。 「私は、頂点には立ちません」 「うん」 「権力も、役割も、いりません」 「うん」 「選ばれるんじゃなくて、自分で選びます」 先輩は静かに笑った。その笑みは、別れを受け入れる顔だった。 「それが、君の答えか」 「ええ。先輩は、私を見通せるつもりだった。でも、最後に選ぶのは私です」 その瞬間、部屋の奥で誰かが息を呑む音がした。振り向くと、敵軍の中心にいた静かな人物が扉の影から現れていた。 「やっと言ったな」 男は淡々と告げる。 「君がこの席に座ったのは、支配の証明じゃない。真実を引きずり出すための装置だった」 私は目を閉じ、短く息を吐いた。やはり、そうだったのか。激辛カレーは合図であり、衣装は視線を奪うための幕。私自身が、嘘を暴くための入口だった。 「なら、終わりにしましょう」 私は椅子から離れた。誰にも選ばれない場所へ。先輩が一歩だけ近づく。 「行くなら一人じゃない」 「それも、私が選びます」 彼は驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。今度は本当に、少しだけ嬉しそうに。 外では夜明け前の風が倉庫の鉄扉を鳴らしていた。私はその音を背に、頂点の席を振り返らなかった。

9章 / 全10

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