姉の指先は、冷たいのに不思議と落ち着く温度をしていた。喫茶店の奥、磨かれた棚の前で、彼女は私の肩越しに窓を見ていた。外では夜の街が、まだ起きているふりをして薄く明るい。けれどこの部屋だけは、時間に置き去りにされたみたいに静かだった。 「怒っていい。でも、怒りのまま相手を裁いたら、残るのは同じ痛みよ」 私は黙った。言い返したかった。奪われたもの、閉じ込められた日々、誰かの都合で選ばれた私。その全部に、ただ罰を下せば済むと思っていた。けれど姉の目は、私の中の荒れた水面を先に見抜いていた。 「私だって、何度も思ったわ。相手を消してしまえば楽だって。けどね、それをやるたびに、別の誰かが同じ穴に落ちる。傷は移るだけで、終わらないの」 彼女はそう言って、古い封筒を私の手に押しつけた。中には、折りたたまれた写真が一枚と、手書きの短い記録があった。幼い私が、今よりずっと小さな背中で笑っている。隣には、まだ義理の姉になる前の彼女が立っていた。写真の端には、見覚えのない男の影がかすかに入り込んでいる。 「これは?」 「あなたが忘れていた時期の一部よ。忘れたんじゃない、隠されたの」 胸がざわついた。姉は続ける。 「時間を止める人たちは、相手を奪うだけじゃない。痛みの記憶を切り取って、従いやすい形にする。だから、あなたが感じている憎しみは正しい。でも、その先で相手の弱さまで見ないと、また同じことを繰り返す」 私は写真を見つめた。笑っているはずの自分の目が、どこか怯えている。そこへマスターが静かに近づいてきた。彼はいつものように穏やかだったが、今日は少しだけ疲れて見えた。 「君は強くなった。だからこそ、壊すだけでは足りない場所が見えるはずだ」 「私に、許せって言うの」 「許す必要はない。ただ、相手が何を失っているかを見なさい」 その言葉は、腹立たしいほどやさしかった。私は拳を握りしめたまま、封筒を胸に抱く。憎しみはまだ消えない。けれど、その向こうに、怯えた顔のまま立ち尽くす誰かの姿が、かすかに重なって見えた。奪う手の裏には、何かを失う恐怖がある。止める者たちも、誰かに止められることを怖れているのかもしれない。 私は深く息を吸った。黒い衣装の内側で、皮膚に浮いた模様が静かに熱を持つ。力の流れは、断ち切るためだけにあるのではない。乱れた道筋に、戻るための隙間を作ることもできる。そう思えた瞬間、胸の中で何かが、怒りではない形に変わり始めた。 姉が小さくうなずく。 「行きなさい。今度は、相手を倒すためじゃなくて、あなた自身を失わないために」 私は頷いた。喫茶店の扉の向こうで、次の戦いの気配が待っている。けれどその先にいる相手を、私はもう単なる敵としては見られなかった。
喫茶店と時止めの嘘
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