エラベノベル堂

猿面の天下取り

全年齢

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4章 / 全10

秀吉が最初に打ったのは、太刀ではなく書状だった。明智討伐の名目を掲げ、諸将へ一斉に使者を飛ばす。信長公の仇を討つ、その言葉は強い。だが強い言葉ほど、受け取る側は裏を探る。播磨にいる者は兵糧を見、近江の者は京との距離を見、遠国の大名は秀吉の名よりも、その動きの速さに眉をひそめた。 「早すぎる」 と誰かが言い、 「自分の手柄にする気だ」 と誰かが笑う。笑いは広がるほど刃になる。秀吉はそれを知っていた。だからこそ、笑われる前に笑ってみせた。宿場の広間で、彼は酒を一口だけ含み、くしゃりと顔をゆるめる。 「拙者は猿ゆえ、考えも足も早うございます」 冗談にした瞬間、場の空気がほどける。だがほどけた糸の端で、皆が彼を見ているのもわかった。猿という呼び名は、もはや侮りだけではない。身軽に跳ぶ獣、機を逃さぬ案内役、あるいは山の奥で何を見てきたかわからぬ怪しげなもの。嘲笑と神秘が同じ顔で並び、彼の評判を押し上げもすれば沈めもした。 ある者は、その顔を見て 「人にあらず」 と囁き、ある者は 「だからこそ見通せる」 と目を細めた。秀吉はどちらにも頷いた。信じさせる必要があるなら、神秘を使う。警戒されるなら、軽さを使う。彼は評判を鎧にも足枷にも変えた。 だが、書状が届くたび、返事は鈍かった。光秀を討つ大義には同意しても、秀吉が前へ出すぎることには皆が身構える。毛利の境で待機する諸将は、こちらの戦果よりも、戦後の取り分を先に見ている。味方であるはずの顔に、別の計算が浮かんでいるのを秀吉は見逃さない。 夜更け、篝火の外で彼は独り、墨の乾いた書状を指先で弾いた。信長の死で揺れた天下は、悲しみだけでは動かない。疑いを抱かれながら進むしかないのだ。 「猿で結構」 低く呟くと、闇の向こうで誰かが笑った気がした。秀吉はその笑いに振り向かず、次の使者の名を書き足した。

4章 / 全10

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