秀吉は城下へ人を入れた。寺の小僧、桶屋の若衆、米問屋の番頭、湯屋の女将。肩書はばらばらでも、皆ひとつの匂いに敏い。先に腹を満たし、先に口をほどく者たちだ。彼はその性分を知っていた。布施の名目で米を少しずつ回し、火急の伝令を運ぶ者には茶と握り飯を惜しまなかった。金を撒いたのではない。安心を置いたのだ。すると噂は自然に集まり、焼け残った京の道筋、明智方の兵の疲れ、逃げた者が隠した行き先まで、細い流れとなって秀吉のもとへ寄ってきた。 「秀吉殿、町人など信用なりませぬ」 重臣の一人が苦々しく言うと、秀吉は笑って肩をすくめた。 「町人が信用ならぬなら、兵糧も道も信用ならぬことになりまする」 軽く返したが、場は笑わなかった。誰もが気づいている。勝つ者は刀だけでは決まらない。米があり、縄があり、知らせがあり、民が動く。秀吉はそこを押さえていた。だから諸将は彼を警戒しながらも、完全には切れない。切れば、自分たちの喉元まで乾くと知っている。 信長の遺志を継ぐのは誰か。その問いも、静かに重く垂れていた。嫡流を立てるべきだという声、弔い合戦を先に成すべきだという声、いずれも正しそうでいて、腹の底では皆が自分の手柄を量っている。秀吉はそれを見て、わざと一歩引いた。前へ出れば矢面になる。退けば、焦れる者が勝手に近づく。 「私は信長公の使い走りにございます」 そう言うと、ある者は安心し、ある者は侮った。だが侮りの中にこそ隙がある。秀吉はその隙へ、米と情報と人心を滑り込ませる。 夜、城下の灯がひとつずつ落ちていくころ、使者が密かに戻った。報告は短い。商人たちは秀吉のもとに荷を集め始め、農家は兵の通り道を整え、噂は明智より先に秀吉の名を遠国へ運びつつあるという。 彼は書状を畳み、しばらく指先で紙の端をなぞった。正統とは、血だけではなく、誰が空腹を止めたかで決まるのかもしれない。ならば、自分はもう半分そこに手をかけている。 その時、別の使者が息を切らして膝をついた。 「柴田殿より……信長公の後を継ぐのは、わが方だと」 秀吉は目を細めた。思わぬ名が、思わぬ速さで牙を見せる。彼はゆっくり立ち上がり、笑みを深くした。 「ほう。ならばなおさら、民の声がものを言いますな」 重臣たちの視線が集まる。秀吉はその中心で、猿と呼ばれた顔を少しだけ傾けた。次の一手は、軍勢ではない。誰が天下にふさわしいかを、先に町が答えるように仕向けることだった。
猿面の天下取り
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