エラベノベル堂

猿面の天下取り

全年齢

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6章 / 全10

山崎の風は、勝った軍の匂いをしていなかった。追い詰められた明智勢が崩れ、光秀が敗れたという報せは、たしかに秀吉の胸を軽くした。だが軽さは一瞬で、すぐに別の重みが肩へ落ちた。討ち果たしたはずの敵より先に、味方の目が曇っている。 「よくやった」 そう言った者の声ほど、遠かった。槍を置く音、盃を勧める笑い、褒め言葉に混じる探るような沈黙。そのどれもが、秀吉には同じ響きに聞こえる。祝杯の席なのに、誰も心の底から酔っていない。 彼は笑ってみせた。いつものように、軽く、愛嬌を含ませて。けれどそれで場が和むのは、昔のことでしかない。人々は秀吉の顔を見て笑いながら、その手際の速さを測っていた。寺を出てからここまでの段取り、兵の集め方、諸将の返事を引き出す早さ。すべてが、誰かには頼もしさで、誰かには脅威だった。 夜半、陣の外れで柴田の使者が静かに頭を下げた。礼儀は正しい。だが距離がある。ひと息ごとに、こちらを値踏みしているのがわかる。 「殿は、しばらく兵を引き取りたいとのこと」 「そうかい」 秀吉は笑い、茶をすすめた。使者は盃に口をつける前に、ちらと周囲を見た。そこにいた重臣たちは、皆、前より少しだけ背を引いている。味方の顔をして、いつからか道を分け始めているのだ。 その夜、別の報告が届いた。山崎の勝利を聞いたはずの近国の大名が、祝意より先に国境の備えを厚くしたという。兵を送ると言いながら、実際には自家の蔵を守っている。秀吉は書状を受け取ったまま、しばらく動かなかった。 「早すぎる、か」 独りごちる声は、かすかに笑っていた。人は勝者を讃えるが、伸びすぎる枝には刃を向ける。ならばこの不穏さは、勝利の証でもある。そう思おうとしても、胸の奥に冷たいものが残る。 ふと、陣幕の外で何かが擦れる気配がした。秀吉が顔を向けると、そこにはかつて盃を交わしたはずの武将がいた。笑みは柔らかい。だが目だけが笑っていない。 「猿殿、近ごろはあまり前へ出られませぬな」 言葉は丁寧だった。けれど、その丁寧さこそが距離の証だった。秀吉は盃を置き、相手の指先を見た。そこには、刀の柄へ戻る癖がある。恐れているのは、こちらの才か、それとも自分の小ささか。 秀吉は一度だけ大きく息を吐き、にこりとした。 「猿は飛びます。ですが、飛び先を見誤れば木にぶつかりまする」 相手は笑った。笑ったまま、少しだけ退いた。その退き方が、答えだった。 勝ったのに、囲いが狭くなる。信長の仇を討ったはずなのに、空いたはずの座に誰も安心して腰を下ろさない。秀吉はその不安を、もはや敵のものではなく、自分に向けられたものとして受け取った。 陣の遠くで火が揺れた。秀吉は炎を見つめ、猿と呼ばれた顔のまま、次に離れていく者の名を心の中で数え始めた。

6章 / 全10

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