エラベノベル堂

猿面の天下取り

全年齢

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7章 / 全10

秀吉は、恩賞の帳面を前にして目を細めた。刀で勝ったあとの仕事は、刀よりずっと難しい。誰に何を与えるか。それだけで、忠義も不満も、明日の兵も動く。山崎の勝利を祝う声の裏で、諸将は互いの取り分を数えていた。秀吉はその目の動きを一つずつ追い、誰が兵糧を欲しがり、誰が城を欲しがり、誰が名を欲しがっているかを見抜く。与える順番を誤れば、味方が味方のままではいなくなる。 「まずは、急ぎの働きをした者からだ」 そう告げると、広間にわずかなざわめきが走った。速さを褒められれば喜ぶ者もいる。だが、秀吉は褒美を惜しんでいるのではない。制度を先に置こうとしているのだ。功を上げた者に報いるのではなく、何を成したかを誰の目にも同じ秤で量る。そこに私情を挟ませぬことが、今の自分を守ると知っていた。 しかし、別の声が静かに広がり始める。猿の姿をした男に、主を名乗る資格があるのか。笑い話のようでいて、刃に近い噂だった。酒席では冗談に変えられても、寺の廊下や馬上の囁きでは、じわじわと毒になる。秀吉はその毒を、真正面から受けなかった。弁舌で押し返せば、相手はますます面白がる。ならば、言葉ではなく形で示すしかない。 彼は諸国へ、改めて書を出した。誰がどの道を守り、どの蔵を押さえ、どの城へ誰を入れるか。恩賞は恩ではなく、責務として記す。受け取る側が自分の利益だけを数えられぬように、役目と支配を結びつけてゆく。そこには秀吉の名が大きく刻まれていなくてもよかった。むしろ、制度そのものが彼の顔になる。猿の顔を笑う者も、紙の上に並ぶ命令の筋道までは笑えない。 夜、仮の天守から庭を見下ろすと、松明の光が水のように揺れていた。そこへ一人の若い使者が駆け込み、息を切らせたまま頭を下げる。 「殿、評議の場で、秀吉殿こそ次の主にふさわしいかを問う声が……」 秀吉は最後まで聞かずに、紙片を一枚差し出した。 「ならば、問うがよい。誰がこの城の米を保ち、誰が兵の足を揃え、誰が荒れた道を直したかを」 使者は戸惑った顔で去った。秀吉はその背を見送り、口元だけで笑う。主にふさわしいか。答えは顔ではない。場を回し、飢えを止め、争いに秩序を与えられるかどうかだ。猿と呼ばれた男は、ついに自分の身を説明するのをやめた。制度が彼を語るなら、それでいい。 だがその瞬間、別室から届いた報せが空気を変えた。帳面にないはずの米が、すでに別の名義で動かされているという。味方の誰かが、秀吉の作る秩序を先に利用していた。秀吉は笑みを消さずに、薄暗い書状を指先で押さえた。敵は外にいるとは限らない。正しさを整えたその土台の下で、もう次の手が動き始めている。

7章 / 全10

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