朝廷との折衝は、思ったよりも静かに進んだ。秀吉が送った贈り物は派手すぎず、けれど手ぶらでもない。公家たちは最初こそ顔を立てて迎えたが、実際には彼の差し出す米と人と道がなければ、京の空気はすぐに痩せると悟り始めていた。誰もが秀吉を笑う口を持っていたのに、その口を開く前に、先へ立つ算段をしてしまう。そこが面白くもあり、怖くもあった。 「おお、猿殿。今度は寺にも顔を出されるか」 古参の公家が薄い笑みを浮かべる。秀吉は同じ調子で返した。 「顔なら、どこへでも参りまする。けれど顔だけでは米は増えませぬ」 場に小さな笑いが起こる。だがその笑いは、昔の嘲りとは違う。笑いながら、相手は手元の包みを確かめ、次に誰へ礼を言うべきかを考えている。従うとは、頭を下げることではない。先回りして自分の席を確保することだ。秀吉はそれを見ていた。 有力寺社もまた、同じだった。法灯を守ると言いながら、実際には誰が次の寄進を約束するかを見ている。秀吉は彼らの懐に入る際、信長の名を過剰に掲げなかった。死者の威光は強いが、強すぎれば人は離れる。代わりに、戦の後で荒れた道を整え、逃げた民に帰る場所を作る話をした。寺社はそれを聞き、ようやく頷いた。武威より先に、安堵が人を縛るのだ。 だが、信長亡き後の空白は埋まらない。埋まらないまま、次代をめぐる声が表へ出た。柴田勝家を立てるべきだという武骨な意見、若い嫡流を守るべきだという慎重な声、そして秀吉の速さを恐れて沈黙する者たち。どれも正しさの顔をしているが、腹の中は別だった。 夜、秀吉は仮屋の奥で使者たちの報をまとめ、ひとり頷いた。みな、表向きは従っている。だが従順の底には、次の勝者が誰かを見極める冷たい目がある。 「空っぽの椅子は、争いを呼ぶか」 誰にともなく呟く。すると、戸の外で控えていた男が膝をついた。 「殿、近隣の寺社は表向き服しました。ですが、柴田方へ通じる者がいます」 秀吉は目を細めた。やはり、空白は敵より恐ろしい。主君がいたころは一つだった流れが、いまは幾筋にも割れている。自分へ寄る者、離れる者、見物を決め込む者。そのすべてをまとめなければ、天下は先へ進まない。 秀吉は窓の外へ視線をやった。京の灯はまだ消えきらず、あちこちで人が眠らぬ気配がした。あの灯を守るために必要なのは、勇気だけではない。誰が主で、誰が従うかを、皆が納得する形で示すことだ。 「明日、評議を開け」 低い声で言うと、部屋の空気がわずかに張る。猿と呼ばれた男は、見下していた者たちが頭を下げる姿を、確かに見た。だが、その先に待つのは喝采ではない。次の主を巡る、もっと厄介な争いだった。
猿面の天下取り
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