エラベノベル堂

女優の仮面の下へ

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5章 / 全10

翌朝、怜が目を覚ますと、紗英がキッチンで歌っていた。小さな、しかし確かな声で。旋律は聞いたことのないものだった。 「……いい声ですね」 声をかけると、彼女は驚いたように振り返り、それから恥ずかしそうに笑った。 「ごめん、起こしちゃった?」 「いいえ、初めて聞きました。歌、好きなんですか」 「……昔はね。女優になる前は、歌手になりたかった」 紗英はコーヒーの香りを楽しむように、カップを両手で包んだ。 「でも、実家が許してくれなくて。女優なら、家の名誉にもなるって」 彼女の横顔には、穏やかな光があった。昨夜の情事が、彼女の中で何かを解き放ったのかもしれない。怜は彼女に近づき、その肩を抱いた。 「あなたの歌、もっと聞きたいです」 紗英は嬉しそうに目を細めた。 「また、歌うわ」 その穏やかな時間は、突然の来訪者によって破られた。インターホンが鳴り、ドアを開けると黒木が立っていた。 「ようこそ」 黒木は怜を一瞥し、鼻で笑った。 「朝からご苦労なことだ」 その視線が、怜の着崩れたシャツと、部屋の奥に見える紗英の姿を行き来する。 「……何の用ですか」 「紗英様の朝の報告に来た。だが、どうやら報告以上のことが行われているようだ」 黒木は靴を脱がずに部屋へ上がり込んだ。紗英の前に立つと、冷ややかな目で彼女を見下ろした。 「紗英様、お顔の色がいい。昨夜はよく眠れたようだ」 「……ええ」 「この学生と、楽しく過ごされたと」 紗英の表情が固まる。黒木は怜の方を向いた。 「君、自分の立場をわかっているのか。紗英様は実家の名誉を背負っている。金曜の舞台は、関係者が大勢来られる。君ごときが彼女の精神を不安定にして、万が一舞台に支障が出たら、どう責任を取る」 怜は黒木の目を見返した。 「紗英さんは不安定じゃありません」 「嘘をつくな。昨夜、彼女が泣いていたのを見た。窓辺で、怯えたような顔で」 黒木の言葉に、怜は眉をひそめた。この男は、覗き見していたのか。 「紗英様は本来、繊細な方だ。役に溺れ、自己を喪失する。そんな彼女を、君がさらに混乱させている」 黒木は紗英に向き直った。 「実家が心配されている。金曜の舞台が終わったら、即刻こちらを立ち退くように。いいですね」 紗英は唇を噛み締めた。その手が、小さく震えている。 「……わかったわ」 黒木が去った後、部屋には重い沈黙が残った。紗英はカップを置く手が震えていた。 「……ごめんね、また迷惑をかけて」 怜は彼女の震える手を取った。 「気にしないでください」 「でも、黒木さんの言う通りかもしれない。私、舞台が近づくと怖くなるの。役に飲み込まれて、自分が消えちゃうんじゃないかって」 彼女の瞳に、再び影が差す。 「怜君、私、本当に演じ続けられるかな。自分を失わずに」 怜は彼女の手を強く握った。 「大丈夫です。あなたは、自分の足で立っている。昨夜、そう言ったでしょう」 紗英は怜を見つめ、小さく頷いた。 「……うん」 だがその瞳には、まだ不安の色が残っていた。黒木の言葉が、彼女の心に棘として刺さっている。怜は、ただ彼女を抱きしめることしかできなかった。

5章 / 全10

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