朝倉凛は、普段より少しだけ早く歩いていた。会場の廊下は人の気配が薄く、絨毯が靴音を吸い込むぶんだけ、彼女の呼吸の乱れが際立つ。控室へ向かう途中、招待客の一人が朝倉を見て露骨に目を細めた。その視線に、彼女の背筋がわずかに強張る。 「気にしないでください」 俺が小声で言うと、朝倉は平静を装ったまま頷いた。だが、扉を閉めた瞬間、彼女は机に置いた書類を強く押さえつけた。 「今の人、知っている顔でした。ああいう連中は、私が弱っていると見ればすぐに飲み込もうとする」 「だから、弱っていないふりをするんですか」 「それ以外に、何があるんです」 返ってきた声は鋭かったが、どこか焦っていた。俺はそれを責めず、椅子を引いて向かいに座る。彼女は一度だけ息を止め、それから早口で続けた。 「ここまで来た以上、こちらから先に主導権を取るべきです。招待側が隠しているなら、私が先に名乗りを上げる。そうすれば相手は逃げにくい」 危うい考えだった。真正面から押せば、相手はむしろ備える。まして、朝倉の会社の名が絡んでいる今、彼女が単独で動けば不利な材料を渡しかねない。 「待ってください」 俺は静かに言った。 「今ここで強く出るのは、向こうの思うつぼです。あなたが前に出るなら、証拠と段取りが先です」 朝倉は眉を寄せた。反論しようとして、唇を結ぶ。その表情は社長というより、追い詰められた同年代の女性に近かった。 「でも、黙って見ているのは嫌です」 「見ているだけじゃありません。逃げ道を塞がれないように、順番を整理するんです」 俺は蓮から受け取ったメモを取り出し、会場の出入り、名簿、資料の動きが重なる時刻を並べて見せた。朝倉はそれを覗き込み、少しずつ肩の力を抜いていく。 「あなた、こういう時まで落ち着いてるんですね」 「慌てるのが役目なら、もう少し早く慌てます」 その言葉に、彼女は思わず吹き出した。笑った直後、すぐに手で口元を押さえる。その仕草が、妙に子どもっぽく見えた。 「ずるいですね。私が一人で全部抱え込もうとしていたの、見えていたんでしょう」 「ええ。無理している顔は、わりと分かりやすいです」 「失礼」 「でも、助かりました」 朝倉はしばらく黙ってから、静かに頷いた。 「……じゃあ、今回は任せます。逃げ道の整理は、あなたの方が上手そうだ」 「その代わり、前に出る時は一緒です」 彼女は俺をまっすぐ見た。今までの社交用の笑みではなく、目の奥にある迷いごと差し出すような視線だった。 「一緒に、ですか」 「ええ。演技でも、本音でも」 朝倉は短く息を吐き、今度はごまかさずに笑った。強くあろうとして尖っていた輪郭が、その一瞬だけ柔らかくなる。 「変ですね。あなたといると、私、少しだけ普通になります」 「それは困りますか」 「いいえ。たぶん、必要です」 廊下の向こうで、また誰かの足音が近づいてきた。朝倉は立ち上がり、胸元の乱れを直す。だが、その動きはもう無理に張りつめていない。俺も立ち、彼女の横に並ぶ。 「行きましょう」 朝倉は今度は先に腕を組まなかった。ただ、ほんの少しだけ距離を詰める。演技の境目が曖昧になっていくのを、俺は黙って受け止めた。
契約の夜に
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