蓮から送られてきた次の一文を見た瞬間、俺は背筋の奥が冷えるのを感じた。会場の書庫にある箱を見ろ。契約書の控えが紛れている。朝倉の会社名が、出資でも協力でもない、妙な形で挟み込まれている。俺は端末を伏せ、隣でグラスを持つ朝倉に視線だけを送った。彼女は何も聞かず、ただ顎をわずかに引く。もう、こちらの異変を察している。 書庫は来賓用の控室の裏にあった。鍵はかかっていなかったが、扉を開けた瞬間、紙の匂いが古い湿気と混じって鼻をついた。棚の一番下、分類札の裏に、薄い封筒が滑り込ませてある。中身は契約の抜粋と、打ち合わせ用の覚え書きだった。だが、条文の並びが変だった。義務だけが先に立ち、相手の責任は曖昧に薄められている。しかも、期限の更新は自動継続、解除条件は通知から極端に短い日数。表向きは穏当でも、実際には抜けられない設計だ。 「これ、普通の契約じゃありません」 朝倉は紙を見下ろし、眉を寄せた。 「私の会社が名前を貸しているように見せて、実質は責任だけ背負わされる形です」 「ええ。しかも、ここで不利益を飲まされても、後から争いにくいように組まれてる」 俺はページの端を指で押さえ、条項の順番を読み直した。法務の研修で嫌になるほど見た、言葉の罠だった。強く見える条件ほど、実は弱い側の逃げ道を塞ぐ。朝倉は唇を結んだまま、黙っている。 「相手は、あなたが単独で出てくるのを待っていたはずです」 「つまり、ここで私が感情的に動けば、向こうはそれを材料にできる」 「そうです。だから、先に形を整えます」 俺は控えの紙を折り目ごとに分け、どの文言が危険か、どこが空白かを順に示した。契約の抜け穴は、たいてい目立たない場所にある。期限、通知先、解釈の優先順位。その三つが曖昧なら、あとから相手に都合よく使われる。 朝倉は俺の説明を聞きながら、少しずつ呼吸を整えた。 「あなた、こんな時にまで冷静なんですね」 「冷静というより、先に怖がっておく癖です」 「それ、役に立ちます」 彼女は短く笑ったが、すぐに真顔へ戻る。いつもの強さではない。守られる側になる自分を、ようやく認めた顔だった。 「なら、私が表で受けます」 朝倉が言った。 「あなたは裏を固めてください。私がサインを迫られても、止められるように」 「わかりました」 俺は頷き、封筒を内ポケットに戻す。演技は続ける。だが、役割は変わった。彼女を前に出しすぎないように、俺が先回りする。朝倉は俺の少し後ろで、誰にも見せない小さなため息をついた。 扉の向こうで、呼び出しの声がした。次の挨拶の席だ。朝倉は髪を整え、社交用の笑みを作る。けれどその横顔には、さっきまでなかった安心があった。俺は彼女の歩幅より半歩先に立つ。 「行きましょう」 朝倉は頷き、低く答えた。 「ええ。今度は、踏み込ませません」 その声は静かだったのに、もう一人で戦う響きではなかった。
契約の夜に
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