エラベノベル堂

契約の夜に

全年齢

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8章 / 全10

朝倉凛が、初めて言葉に詰まったのは、会場の裏手にある小さな喫煙室の前だった。扉の向こうからは、低い笑い声と食器の触れ合う音が遠くに流れてくる。彼女は立ち止まり、何もない壁を見つめたまま、しばらく動かなかった。 「……私が、狙われる理由が分かりました」 それは弱音というより、事実をようやく自分で受け止めた声だった。俺が返事を待つ間に、彼女は少しだけ笑おうとして、すぐ失敗した。 「私の会社は、昔からこの手の場に便利に使われてきたんです。表向きは協力、実際は責任の押し付け。私はその流れを断つために社長になった。でも、断ち切ったつもりでいただけでした」 朝倉はそこで言葉を止めた。強いだけの人間なら、そのまま続けてしまうだろう。けれど彼女は、初めて自分の弱さを隠しきれない顔をしていた。俺は励ます言葉を探さなかった。代わりに、端末を開いて画面を彼女に向けた。 「なら、感情じゃなく手順で守ります」 「……手順?」 「まず、今夜は一人で動かない。会場内では常に二人一組。あなたが話す相手、受け取る書類、移動する順番を全部俺が先に確認します。疑わしい要求が来たら、その場で返事をしない。俺が法務の建前で止めます」 朝倉は目を見開いた。慰めを期待していなかった人間が、具体策を差し出されて戸惑う、その顔だった。 「それで、私が狙われても大丈夫なんですか」 「大丈夫ではなく、被害を最小にします。狙いはあなたを揺さぶることです。だから、揺さぶりに見えるものを全部遅らせる。記録を残す。単独判断をさせない。相手が欲しいのは焦りです」 彼女はしばらく黙っていた。やがて、肩の力が目に見えて抜ける。 「……そういうの、誰にも言われたことがありません」 「社長相手に、気休めは役に立たないので」 「ひどいですね」 「でも、安心したでしょう」 今度は朝倉が、はっきり笑った。さっきまでの硬さが嘘みたいにほどける。その一瞬で、役割が静かに逆転したのが分かった。これまで彼女は俺を導くふりをして、実際には必死に踏ん張っていた。だが今は、俺が前に立ち、彼女がそれを受け入れていた。 「分かりました。今夜は任せます」 「ええ。代わりに、あなたは見落としそうな顔を全部覚えてください」 「そんなこと、私にできますか」 「できます。強い人は、人をよく見ていますから」 朝倉は少しだけ目を伏せた。褒められたのに、泣きそうな顔をするのが不思議だった。 その時、端末が震えた。蓮からの新しい連絡だった。たった一行、でも十分だった。今、管理者が動く。裏口へ回れ。証拠は向こうが先に移すつもりだ。 俺は朝倉の手首を軽く取り、喫煙室を離れた。 「行きます。今度は、俺の指示に従ってください」 「了解です、先生」 彼女はそう言って、もう迷わず俺の半歩後ろについた。廊下の先には、まだ見えない火種が眠っている。けれど、守り方を知った二人なら、燃え広がる前に形を変えられる気がした。朝倉凛は、初めて弱さを見せたその顔で、静かに前を向いた。

8章 / 全10

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