裏口へ向かう通路は、会場の華やかさが嘘のように静かだった。絨毯の色も照明の温度も、表の空気とは別物で、ここに来て初めて、この集まりが最初から二つに分かれていたのだと分かる。朝倉凛は俺の半歩後ろを保ちながら、周囲を見ていた。さっきまでの強がりは薄れたが、その代わり、目の動きが冴えている。 「管理者は、どこへ?」 「記録室です。証拠を移すなら、そこが一番早い」 俺が答えると、彼女は小さく頷いた。もう感情で突っ走る顔ではない。危険を知ったうえで、冷静に踏み込む顔だ。 扉の陰で待っていると、向こう側から二人分の足音が近づいた。ひとりは会場の管理者、もうひとりは招待側の男だ。会話は低く、だが切迫している。 「朝倉の件は、あのまま通すんだろうな」 「通せる。会社の名前を前に立ててある。本人がここでサインすれば、あとから覆すのは難しい」 俺は息を止めた。やはり狙いは、契約そのものを結ばせることではない。責任の所在を曖昧にしたまま、朝倉の会社にだけ傷を残す罠だ。 蓮からの追記が脳裏をよぎる。書類の一部は既に差し替えられている。なら、ここで止めるしかない。 俺は朝倉に目配せし、扉の前へ出た。 「失礼します。今の契約文、確認させてもらえますか」 管理者が顔をしかめた。だが、俺は気圧されず、差し出された紙を一度だけ受け取る。目で追うのは署名欄ではない。締結条件、通知先、責任分界の一文だ。案の定、朝倉の会社名だけが、協力ではなく承認の位置に置かれている。 「これでは、実務上の責任は全部朝倉側です。しかも、相手方の履行条件が空白だ」 「何を言っている」 男が声を荒らげる。だが、俺は紙を返しながら、穏やかに続けた。 「法的には不完全です。今ここで署名しても、後で争点になります。記録も残っている。会場の録音、受付の動線、出入りの時刻。無理に押せば、むしろ不利ですよ」 沈黙が落ちた。管理者の顔色が変わる。朝倉は何も言わない。ただ、俺の横に立ったまま、背筋を真っすぐ保っていた。 「あなた、最初から知っていたのか」 招待側の男が朝倉を睨む。 「知りませんでした」 朝倉が答えた声は、驚くほど静かだった。 「けれど、今ここで飲み込まれるつもりもありません」 その一言で、場の空気が変わった。男たちはまだ何か言おうとしたが、俺は端末を掲げた。蓮が送ってきた写しと、さきほどの会話の時刻がすでに保存されている。 「続けるなら、全部残します。会社に向けた罠なら、こちらも会社として受けます」 朝倉が一瞬だけ俺を見る。その目は、社長のものでも、弱った人間のものでもなかった。隣に立つ相手を、確かに信じた目だった。 やがて管理者は舌打ちし、紙を奪い返した。 「今日はここまでだ」 逃げたのは相手だった。だが、勝ったという感じはしない。むしろ、罠が一枚はがれて、中身の粗さが見えただけだ。 通路へ戻ると、朝倉が小さく息をついた。 「助かりました」 「まだ終わっていません」 「ええ。でも、最小限にはできた」 彼女はそこで、少しだけ笑った。強く見せるための笑みではなく、ようやく肩の力を抜いた顔だった。 「あなた、やっぱり普通の会社員じゃないですね」 「普通ですよ。書類が読めるだけです」 「その書類で、私を守った」 朝倉はそう言って、歩き出した。今度は俺の前ではなく、隣を選ぶように。会場の奥ではまだ音がしていたが、さっきまでの重さはない。罠は完全には壊れていない。けれど、社長の会社に向けられた刃先は、確かに鈍った。 俺たちはそのまま、夜の明るさへ戻っていった。
契約の夜に
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