閉店作業の終わった裏口は、店内の賑わいが嘘のように静かだった。碧斗は偶然、外に出た杏花が足を止めるのを見た。街灯の薄い光の下、彼女の前に立っていた男は、客として見たことのない顔だった。杏花の肩が、目に見えて強ばる。さっきまで店内で張りつけていた笑顔が、音もなく崩れた。 「来ないで」 小さな声だった。けれど、その一言には明確な拒絶と怯えが滲んでいた。男が一歩近づくより早く、碧斗は反射で裏口の脇へ身を滑らせた。杏花の視線がこちらを捉え、次の瞬間には同じ方向へ駆け出している。事情を聞く余裕はない。ただ、このまま立ち止まればまずいと本能が告げていた。 二人は夜の通りへ飛び出した。大通りは明るいが、人の流れが一定で、かえって追う側には都合がいい。碧斗は店の配置と近くの路地の角度を頭の中でなぞり、看板の影が長く落ちる場所へ杏花を導いた。角を二つ曲がれば、道路工事の仮囲いが視界を切る。そこなら一瞬だけ姿を消せる。杏花は息を乱しながらも、碧斗の指示に従った。 「こっち」 碧斗は短く言い、監視カメラの向きを確かめる。交差点の上には一台、商店街の入口にはもう一台。だが、電飾の看板が作る暗がりには死角がある。二人はその隙を縫って進み、足音を極力そろえた。背後で靴音がいくつか増えるたび、杏花の呼吸が浅くなる。 「大丈夫、見えてる範囲でしか追えない」 碧斗がそう言うと、杏花はこわばったまま小さく笑おうとして、失敗した。頬の端が震えている。店で見せていた完璧な愛想は、もうどこにもない。代わりに残っていたのは、逃げることに慣れていない人の生々しい恐怖だった。 それが碧斗には、妙に現実的だった。作られた笑顔よりも、よほど人間らしい。二人は人気の少ない横道へ入り、光と影の境目を渡るようにして追手の視界を切り離していく。杏花は何度も後ろを見たがり、それでも碧斗の袖をつかむ手だけは離さなかった。夜風は冷たいのに、その掌だけが熱を持っていた。
夜を抜ける契約
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