エラベノベル堂

夜を抜ける契約

全年齢

小説ID: cmoleazcj000a01oce67ks539

3章 / 全10

路地を抜けた先の小さなコインランドリーは、夜更けの街で妙に静かだった。碧斗はガラス越しに外を一度だけ確認し、杏花を奥のベンチへ促した。ここなら人目は少ない。だが、完全に安全だと断言できる場所でもない。洗濯機の回る低い唸りが、沈黙を薄く覆っていた。 杏花は肩で息をしながら、しばらく何も言わなかった。さっきまでの怯えた顔のまま、唇だけが固く結ばれている。碧斗は隣に座らず、少し間を空けて立ったまま言った。 「ここで撒けたはずだ。追手の数も、動きも見えていた」 「見えていても、向こうは諦めない」 その返事は、店での甘い声とは別物だった。杏花は目を伏せ、指先で膝の上の布を握りしめる。 「私は、ただの店員じゃない」 碧斗は驚かなかったわけではない。けれど、言葉を挟まず続きを待った。 「客から預かったものがあるの。金じゃない。情報よ。口に出したら軽く見えるけど、向こうにとっては困るものだったみたい」 杏花はそこで一度息を飲んだ。まるで、話すこと自体が背中を押し返すようだった。 「受け取ったのは、仕事の流れの中だった。私は中身を全部見ていない。でも、渡す相手を間違えたらいけないって、あの人は言った。だから預かった。なのに、そのあとからずっと狙われてる」 碧斗は短く頷いた。感情で守ろうとすると、判断が鈍る。今必要なのは、逃げるための手順だ。 「なら、まず切り分ける。君が知っていること、知らないこと、相手が欲しがっているもの。順番に整理する」 杏花が顔を上げた。驚いたような目だった。 「怖くないの?」 「怖い。でも、それは止まる理由じゃない」 碧斗は自分でも冷たいと思うほど落ち着いた声で続けた。 「俺は感情で動かない。手順で守る。君が巻き込まれているなら、状況を読めば抜け道はある」 杏花はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。安心した笑いではない。張りつめていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ音だった。 「変な人」 「よく言われる」 そのやり取りのあと、二人の間にあった距離は少し変わった。偶然同じ危機に巻き込まれた見知らぬ二人ではない。互いの事情を抱えたまま、同じ手順の上に立つ相手だと、碧斗は静かに認識する。杏花もまた、彼をただの通りすがりでは見なくなっていた。洗濯機の回転音の向こうで、街の遠いざわめきがかすかに戻り始める。碧斗はもう一度、窓の外へ目を走らせた。ここから先は、逃げるだけでは終わらない。

3章 / 全10

TOPへ