商業都市の市場は、夕暮れ前だというのに熱気が抜けていなかった。染料の匂い、焼いた果実の甘い香り、荷車の軋む音が入り混じり、真由は人波に紛れながら歩く。王宮の石畳とは違う、生活のざらつきが肌に触れる場所だった。約束の場所は、時計台の影にある小さな茶屋の奥だと聞かされていた。店先では誰も彼女を気に留めない。だが奥の席に座る男は、真由が近づく前から顔を上げていた。 悠希は、見た目だけならただの若い商人だった。軽い外套に、よく手入れされた指先。けれど視線だけが妙に落ち着いていて、相手の呼吸まで測るように静かだった。真由が向かいに腰を下ろすと、彼は湯気の立つ茶を押しやる。 「遅くはない。ここに来られただけで十分です」 「あなたが、情報屋?」 「そういうことにしておいてください」 曖昧な答えに、真由は眉をひそめた。だが次に続く言葉で、その違和感は別のものに変わる。 「王宮の中で今いちばん危ないのは、外の敵じゃない。責める相手を一人に決めたがる人たちです。殿下が試験場で見せたのは、力そのものより、彼らの都合を壊したことだった」 真由は息を止めた。試験の場を見ていたのか、それとも最初から知っていたのか。悠希は質問を受ける前に、わずかに目を伏せる。 「それ以上は、今は言いません。先を知りすぎると、人は同じ失敗をなぞります」 その言い方は、忠告というより、何度も同じ言葉を使い慣れた者の響きがあった。 彼は続けて、城門の警備が増える日、北街の倉庫に近づかないこと、名簿の書き換えを見てもすぐに怒らないことを告げた。どれも断定を避け、なぜかは言わない。それなのに、真由にはその助言が不自然なほど王宮の内情に通じているとわかった。派閥の名前、古い役職の癖、誰が誰の顔を立てたがるかまで、悠希は軽く言い当てる。 「どうして、そこまで知っているの」 「知っているからです」 それだけ答えたあと、彼は珍しく言葉を選ぶように間を置いた。 「ただ、殿下にだけは、私は裏切りません。今も、これからも」 あまりに真っ直ぐな断言だった。真由は返す言葉を失う。信じるには早く、疑うには、彼の態度が静かすぎる。悠希はその沈黙を責めず、テーブルの端に小さな包みを置いた。中から出てきたのは、薄い羊皮紙だった。折り目に沿って描かれた線は、地図のようであり、地図とも言い切れない。 「記憶を取り戻す手がかりです。今の殿下に必要なのは、答えじゃない。順番です」 真由が紙面に触れると、指先の奥で、あの懐かしい熱がかすかに震えた。悠希はそれを見ても驚かない。ただ、ほんの少しだけ表情をゆるめる。 「大丈夫。急がなくていい。行く先は、殿下が選べます」 茶屋の窓の外で、商業都市の灯がひとつ、またひとつとともり始める。真由は地図を見下ろしたまま、目の前の男が何者なのかをまだ知らないまま、それでもこの先に続く道の気配だけは確かに感じていた。
記憶を継ぐ王女
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