扉の鈴が鳴ったのは、閉店までまだ少しある時間だった。相良陸斗はカウンター越しに顔を上げ、入ってきた客を見てすぐに、莉緒だと気づいた。画面越しで見る彼女は、いつも堂々としている。だが目の前にいる莉緒は、深くかぶった帽子に前髪を少し寄せ、細いマスクの端を指で整えながら、店内を慎重に見回していた。見られることに慣れているはずなのに、見られないための工夫だけがやけに手慣れている。その不自然さが、陸斗の関心を強くした。 「いらっしゃい。奥の席、空いてるよ」 できるだけ普段どおりに声をかけると、莉緒は小さくうなずいた。言葉は少ない。それでも、警戒している相手にありがちな硬さは、店に入ってから少しずつほどけていった。陸斗はそれ以上踏み込まない。名前を呼びすぎず、視線を追いすぎず、必要なことだけを整える。水を置き、メニューを差し出し、注文が決まるまで静かに待った。 「ブレンドで」 短い声だった。陸斗が豆を挽き、湯を落としはじめると、莉緒はカップの縁を両手で包んだまま、窓の外に目を向けた。夕暮れの通りは穏やかで、人影もまばらだ。店内には豆の香りと、時計の秒針だけが流れている。派手な照明も、余計な音もない。その静けさが、彼女の肩の力を少しずつ抜いていくのがわかった。 陸斗は会話を急がなかった。相手が安心できる速度でいることのほうが、今は大事だった。莉緒は時折、背筋を伸ばしてはすぐに力を抜き、誰かに見られていないか確かめるように扉のほうへ視線を送る。そのたびに、陸斗は何気なく食器を拭き、視線を逸らす。踏み込みすぎない距離を保つことが、かえって彼女の警戒をやわらげるようだった。 しばらくして、莉緒はカップを見つめたまま、ぽつりと息を漏らした。 「ここ、落ち着くね」 その一言は、たったそれだけなのに、陸斗には十分だった。身元も生活も徹底して隠している彼女が、わざわざこの店を選んだ理由が、少しだけ見えた気がした。画面の向こうでは強くあろうとするほど、現実では身を縮めている。そんな綱渡りのような日々の中で、少しでも安心できる場所を探していたのかもしれない。 「なら、よかった」 陸斗がそう返すと、莉緒はほんのわずかに目を細めた。笑ったのかどうか判然としない、けれど確かな変化だった。外では風が看板を揺らしたが、店内の空気は乱れない。陸斗はそのまま、彼女が飲み終えるまで静かな時間を守った。まだ理由は分からない。だが、慎重すぎる隠し方の奥に、簡単には触れられない事情があることだけは、はっきりと感じられた。
喫茶店から守る声
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