翌日の朝、総務課はいつもと変わらないはずだった。だが一真は、席に着いた瞬間から妙な視線の多さを感じていた。プリンタの前、給湯室の手前、書類棚の陰。誰かがこちらを見て、すぐに目をそらす。そのたびに、隣で結衣が小さく息をつく気配がした。 原因はすぐに分かった。休憩明けの短い打ち合わせで、先輩と後輩がやけに息ぴったりですね、と誰かが軽く笑ったのだ。悪意のない冗談だったが、そこに別の誰かの笑いが重なり、空気が少しだけ変わる。一真は返す言葉を探したが、結衣のほうが先に動いた。 え、そう見えます? 結衣は目を丸くして、わざとらしいほど控えめに首をかしげた。次の瞬間には、少しだけ頬を染め、書類を抱え直している。まるで突然、人前で照れたふりを覚えたみたいだった。 先輩が頼りになるので、つい その声はいつもの落ち着いた調子より、わずかに高かった。周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。一真が言葉を失っていると、結衣はさらに困ったように眉を下げ、あたふたと笑ってみせる。普段の彼女を知る一真には、それが芝居じみたものだとすぐ分かった。だが不思議なことに、その芝居は場を丸く収めるには十分だった。 ああ、そういうことか、と誰かが笑い、空気がほどける。結衣は深く頭を下げるでもなく、自然に話題を仕事へ戻していった。けれど一真の胸には、妙な引っかかりが残る。いつもの軽口で切り返す代わりに、なぜ彼女はあんなふうに自分を小さく見せたのか。 昼前、資料の差し替えを終えたころ、結衣が棚の前で一真を待っていた。人のいない廊下に出ると、彼女はさっきまでの芝居が嘘みたいに表情を落ち着かせる。 先輩、さっきは助かりました そう言ったあと、結衣は少しだけ視線を逸らした。 ああでも、ああいうの、慣れてるので 一真は足を止めた。何気ない一言なのに、そこには冗談めいた響きがなかった。慣れている、という言い方が、まるで反射のように口をついたみたいだったからだ。 何に、とは聞けなかった。聞けば、彼女の整った仮面の内側まで踏み込む気がした。 結衣は気づいたように、すぐ小さく笑う。 深い意味はないです。ただ、変に見られるよりは、軽く流せるほうが楽なので その言葉はあまりにさらりとしていた。だが一真には、周囲に合わせて笑う癖のようなものが、その下に隠れている気がした。職場で目立たないようにしているのではない。目立ったときに、自分が傷つかないように形を整えている。大胆に見える振る舞いも、からかいも、全部が自分を守るための手つきなのかもしれない。 一真が何も言えずにいると、結衣はいつもの調子を少し戻した。 先輩、そんな真剣な顔しないでください。私まで反省してるみたいじゃないですか その軽さに救われた気がして、一真はようやく息を吐いた。けれど視線の先にある彼女の横顔は、やはりどこか慎重だった。人に合わせるのが上手いのではなく、合わせることで自分を隠す術を身につけた人の顔に見える。 結衣は書類の束を抱え直し、何事もなかったように歩き出した。その背中を見送りながら、一真は初めて、彼女の軽やかさの裏にあるものを知った気がした。
控えめ後輩の仮面
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