大きな案件の締切が、ついに今日だった。朝から総務課は慌ただしく、コピー機の音と電話の短い呼び出し音が重なっている。一真は提出用の最終確認表を見つめ、隣で結衣が資料の束を整えるのを横目で追った。いつもなら彼女の手際の良さに助けられるところだが、今日は妙なざわつきがあった。 昼前、共有フォルダの更新記録に、ひとつだけ見慣れない差し替えが混じっているのを一真が見つけた。書式は整っている。だが、提出直前に一部の数値が古い版のままだった。誰かが急いで入れ替えた痕跡がある。確認を重ねるうちに、その経路が結衣の担当欄を通っていることまで分かってしまう。 一瞬で空気が冷えた。近くにいた数人の視線が、さりげなく結衣へ集まる。一真はその変化を見て、すぐに立ち上がった。 記録をもう一度追います。結衣さんは配布版の最終整形に回ってください 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。責める調子を少しでも混ぜれば、場は一気に結衣へ傾く。だから一真は、淡々と役割を切り分けた。記録の更新時刻、差し替え前後の版、誰がどこで確認したか。順に並べていくと、問題が結衣のミスと決まったわけではないと分かる。むしろ、更新の途中で別の版が紛れ込んだ可能性が高かった。 結衣もすぐに動いた。顔色を変えないまま、必要な確認先へ短く目配せを送り、黙って印刷物を集める。いつもの軽口はない。ただ、視線だけで一真の指示を受け取り、次に何を置けばいいかを先回りしていく。その静かな速さに、一真は胸の奥で息を整えた。 原因は、外部から届いた差し替え指示の転記ミスだった。結衣の作業ではなく、最後の受け渡しで記録がずれていたのだ。一真はそれを整理して上長へ報告し、修正版の提出順序を組み直した。結衣は横で、必要な箇所にだけ無駄なく手を伸ばし、書類の流れを止めなかった。 やがて提出は間に合った。周囲に残っていた緊張が少しずつほどけ、誰かが小さく安堵の息を漏らす。上長は一真と結衣を交互に見て、静かにうなずいた。 二人の連携がなければ、危なかったな その一言に、結衣がわずかに目を伏せる。一真は、まだ終わったわけではないと告げるように、続けて書類を揃えた。だが、上長の評価はそれで終わらなかった。結衣の対応の速さと、一真の判断の冷静さ。その両方があって初めて、案件は持ち直したのだと、はっきり口にされた。 周囲の空気が変わる。責任を押しつけられかけた結衣を、一真がただ庇ったのではない。二人で崩れかけた流れを立て直したのだと、誰の目にも分かる形になった。 片づけが一段落したころ、結衣が小さく息を吐いた。 先輩、さっきは…… そこで言葉が止まる。いつもの軽さはない。それでも、一真には十分だった。 いや。結衣がいたから戻せた 結衣は少しだけ目を見開き、それからほんのわずかに笑った。 それ、私も同じです その返事は静かだったが、はっきりしていた。互いに欠かせない。そんな認識が、言葉の外側で自然に重なる。書類の山はもう高くない。だが、机の向こうに立つ結衣の存在だけは、さっきよりずっと確かな輪郭を持ってそこにあった。
控えめ後輩の仮面
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