扉の外の気配に、私は制御盤の前で固まった。足音は消えたのに、研究室の空気だけが妙に張りつめている。暑さで脈打つこめかみに、別の冷えが触れた気がして、思わず肩をすくめた。 そのときだった。奥の薬品保管庫の扉が、かすかに鳴った。閉めたはずの金具が、ゆっくりと内側から押し返される。私は息を止めたまま見つめる。細い隙間が開き、白い布のようなものが揺れた。いや、布ではない。白衣だ。真っ白な裾が、薄闇の中でふわりと浮いた。 次の瞬間、白衣姿の人影がするりと姿を現した。 細い、あまりに細い輪郭だった。長い黒髪が頬を覆い、顔はよく見えない。だが白衣の肩口から落ちる空気は、周囲の熱を吸い取ったかのように冷たい。私は喉を鳴らし、後ずさる。夏の夜に似つかわしくないその白さは、雪の底から這い上がってきた怪異のようだった。 「……来たのか」 自分でも意味の分からない声が漏れた。人影は答えない。けれど、薬品棚の影から現れたその歩みは、足音ひとつ立てずに近づいてくる。床を滑っているようにしか見えない。袖口から覗く手は異様に白く、冷気をまとっているようだった。 私は机の端を掴み、震えを押し殺した。だが、怯えながらも、どこかで違和感が頭を離れない。怪談なら、もっと劇的なはずだ。影の出方にしても、冷えの流れにしても、あまりに狙いすましたように見える。白衣の裾は床を引きずっていない。濡れている様子もないのに、やけに整っている。 その人影が、私のすぐ手前で止まった。 顔はまだ見えない。だが、長い髪の隙間から覗いた耳に、小さな何かが光った。金属の小さな留め具のようにも見える。私はそこに視線を止めたまま、ようやく気づく。怪異にしては、細部が妙に人間的すぎる。雪女じみた冷たさの中に、作り物めいた気配が混じっている。 「……誰だ、お前は」 問いかけた途端、人影の肩がわずかに揺れた。まるで息をこらえきれなかった人のように。私はその動きに、恐怖より先に、別の感覚を覚える。怯えながらも正体を探れという、逃げ遅れた理性の呻きだった。 私は視線を人影の足元へ落とした。影は長く伸びているが、床に落ちる水滴はない。白衣の袖も乾いている。ならば、さっき感じた冷気はどこから来たのか。薬品庫の扉の内側に、何か仕掛けがあるのか。それとも、この人影そのものが、何かを隠すための演出なのか。 震える手を握りしめ、私は一歩だけ前へ出た。人影は動かない。ただ、白い裾がわずかに揺れた。その静けさが、かえって不気味だった。けれど私は、目を逸らさなかった。恐ろしいものの輪郭ほど、まじまじと見るしかない。そうしなければ、この夜に呑まれてしまう気がした。 白衣の影は、まるで私の疑いを待っているように、じっとそこに立っていた。
灼熱研究室の雪女
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